息子が犯罪被害にあって

公益社団法人京都犯罪被害者支援センター

西 池 紀 子

 平成15年12月、息子ともう一人の男子児童が、小学校の教室内に侵入した不審者から包丁で頭部に怪我を負わされました。不審者は学校区内に住む精神障害者でした。あれから9年、元気な毎日を送っていますが、家族皆が事件を忘れることはなく、学校区の地域の方達も事件翌日から毎朝夕、通学路に立ち今も子供達の安全を見守ってくださっています。
 事件は小学校1年2学期最後の給食時間に起きました。犯人はまず、教卓前に立つ副担任に包丁を振り下ろしましたが、副担任はその手を振り払い担任や児童達には何も言わず、助けを求めに教室を出ていきました。怖くて動けなかった息子ともう一人の児童は、背後から頭部へ包丁を振り下ろされ3~7センチの怪我、それを見ていた女子児童の大きな泣き叫ぶ声で、教室内にいた担任が初めて異変に気づきました。すでに息子たちが怪我をしていたことは当然わかりませんでした。児童は担任の「逃げなさい」という大声で、教室から飛び出て階段を下り職員室へ駆け込み、犯人は、先生達にすぐに取り押さえられました。息子はずっと、顔面蒼白で何もしゃべれなかったようです。  担任からの電話を私が取りましたが、何がなんだか理解できませんでした。とにかく息子の所へ行かないといけないと主人に話しかけた時には主人は出る準備をしていました。電話中、みるみるうちに顔がこわばっていく私の様子を見て、ただの怪我ではないと感じたからでした。病院で会えた息子は、頭に大きな白い包帯、トレーナー、上靴に血がいっぱいついた状態でした。驚いて言葉が出ず抱いてやることしかできませんでした。息子のぬくもり、声を聞き、生きていると実感し、一緒に家へ帰れることがとても嬉しかったです。しかし、病院から警察へ行き事情聴取を受ける間に、多数のマスコミ関係者が、警察署、自宅へもつめていた為、私たちは自宅へは夜中にしか帰れませんでした。まさに、ニュースで見る光景でした。
 目に見える傷はすぐに治りますが、目に見えない心の傷は続きました。低学年時にはひとりで下校ができない、夜が怖くて寝付けず「死にたくない!死なさんといて!」と叫ぶのです。「頭が痛い、何か怖い事ありそうや」と休む日もありました。新聞の事件記事を見た、学校で何かあった後などは、家の中でもずっと私についてまわる日が続き、瞬きのチックが何週間も続くのです。学校側は教師の意識がバラバラで問題が多々ありました。
 息子が心配でつらくて、事件直後から学校や市教委に何度も足を運びました。裁判は、毎回傍聴しましたが、悲しくなったり、腹をたてたり、何が真実かわからなくなった事もありました。そして、主人と思いが噛み合わず喧嘩になったりと気持ちの落ち着く日はなかったと思います。子供の前で私が泣く姿は見せられない、押しつぶされそうになる時、いつも優しく話を聞いてくれたのが、京都犯罪被害者支援センターでした。思いをいつも共有してくれたと感じています。被害者家族皆が苦しみ続ける生活が突然始まるのです。そして終わらない、消せない、そんな私たちの心に寄り添ってくれる人がいました。母としてどうすればいいのか困ったら、わからないと言葉に出せるまで待ってくれる人がいたことで少しずつ歩いてこれたと思います。裁判傍聴も毎回していただき、一緒に考え悩み、喜怒哀楽を一緒に感じてくれました。その裁判は、殺人ではなく傷害事件として最高裁まですすみ、息子が小学校卒業するまでに刑を終えて社会復帰する結果となりました。
 私は、意見陳述を自分自身ではせず陳述書を提出する方法を選び、裁判官が読みあげました。私の顔がマスコミに知られると、私が息子と一緒に歩いているのを見たら息子が被害者だとわかってしまうのが嫌で怖かったのです。絶対、不安定な息子にマスコミを近づけたくなかったからです。でも、地裁の結審に納得いかず、弁護士と相談をしてマスコミに集まっていただき、母として、犯人と学校に対する思いを伝える場を設けました。初めてマスコミと向き合う事、顔がわかってしまう事、とても複雑な思いでした。深く考えず、自分で裁判所や犯人に声を届けるべきだったと今でも悔やんでいます。
 この事件は、安全である学校の教室で、あってはならないことなのに起きた事件でした。事件後の対策として、ソフト面に力を入れ、ハード面はほとんどなされませんでした。息子から早く「死の恐怖」をなくし「僕はどこにいても大丈夫、怖い事は起きない」という気持ちを持ってほしい、また、教師が緊急時に児童の傍を離れない、同じ事を起こさないでほしいという願いから緊急通報装置(教室と職員室の連絡)設置を早くから強く希望しました。
 学校、市教委、議会、行政へと要請を続けても「予算措置は講じておりません」と進展がありませんでした。安全に100%はないのに検討すらしてもらえません。私はなんとしても設置してもらう為に、学校安全に関する機関、学識経験者などを探し、出向くことを惜しみませんでした。相談の結果、弁護士と調停を考えました。
 でも、息子、弟妹が通学する学校は、先生は、この事をどう思うのだろうか?子供に悪影響は出ないだろうか?また、主人は自営業であるがゆえ地域に根ざしているだけに心配と不安ですぐに踏み切れませんでした。元気な子供の姿を見ていたいだけです。私たちの行動は本当に子供の為になるのか悩みましたが、わが子を守るためには止まってはいられないという思いが、私たちを動かしていたのだと思います。そして始めた調停、対話を1年繰り返し、ついに緊急通報装置の設置が決まりました。とても長くてつらい時間でしたが、嬉しい結果です。
 翌年、市立学校全てに装置がつきました。現在、息子が通った小学校は建て替えられていますが、緊急通報装置は新校舎にも設置されています。事件前も、事件後も私たちの生活の場、生活環境は変わらないのに、事件前とは違い心の中が大きく変わりました。ただ、新校舎だと事件を思い出す事が減るような気がして参観等に行くのにほっとしています。主人が、今も思い出す事は当然あるけど、事件中心の生活はしんどかったと言います。そうかもしれません。事件直後は、警察の被害者支援担当者や京都犯罪被害者支援センターが何をしてくれるのだろう?支援は今だけ?などと思っていました。何でも言ってくださいの「何でも」がわからなかったのです。でも、係わる時間、会う機会が増えていき、少しずつ思いを伝えやすくなり、伝えたくなっていました。
 被害者となってしまったが為に今でも嫌な思いをすることが現実あります。でも、息子と私たちは、多くの人たちに見守られながら、重い心の中を少しずつでも出しながら、事件の日からのいろんな思いを経て今の生活を大事に過ごせているのだと思います。
 事件のない社会であってほしいと強く思います。