公共交通事故被害者支援

201403card公益社団法人被害者支援センターすてっぷぐんま

梁 田 知 代 子

 

 最近、大きな事件や交通事故のニュースを見る度に、被害者本人はもとより家族がこれから起こる様々な出来事に巻き込まれ、戸惑いもがき、苦しみ、泣き続けるのかと思い、大変心が痛みます。
被害者としての体験をしている私は、吸い込まれるようにあの日の自分に戻ります。
 連絡を受け事故現場や病院へ駆けつける時の家族の気持ち、大怪我をし痛み苦しむ家族の姿、失うもの、戦うこと・・・当時の自分と重なり、辛かった事や、恐怖と絶望感が思い出され、涙が出てきます。
 2012年4月29日早朝、当時高校3年生だった私の息子は、高速ツアーバスに乗車し、バスの運転手の居眠りが原因で、大けがを負わされました。在学していた石川県内の全寮制の私立高校から、茨城県の実家へ帰省するために利用した高速深夜バスでした。
 このバスの運行に関わったのは多数の会社でしたが、事故後は責任を互いになすりつけ合い、ほとんどが補償もせずに逃げていきました。
 運転手は「病気があった」などと主張し、長く裁判で争いました。事故当時の朝、救急隊員からの電話で息子の怪我を知り、群馬県高崎市内の病院へ駆けつけた私は、その日からホテルに滞在しながら息子の看病をすることになりました。友も親戚もいない初めての地、高崎で「被害者」として過ごした日々は、とても辛く大変でした。
 公共交通事故は、一度に大勢の乗客が被害者になります。ほとんどの人が警察、弁護士、法律とは全く無関係の、平穏な日常を送っている一般人です。事故の原因とは無関係で、誰ひとり何の落ち度もないです。
 日常のある瞬間から突然、何の準備も知識もないまま「被害者」となります。例えるのならば、茶の間からいきなり戦場に放り込まれたような状態です。
 現代の日本において一般人が見ず知らずの他人と争う事はほとんどありませんが、事件や事故が起こってしまうと、被害者やその家族・遺族は、すでに弁護士がついている加害者、もしくは大きな組織を憎み、戦わなければならなくなります。誰もが戦う術も、自分や家族の身を守る術も知らないままにそれは始まってしまいます。被害者の家族・遺族は、事故の悲しい現実を受け止め、それまでの生活を維持しながら、怪我の治療・看病、そして加害者側と戦う事、全て同時進行で、しかもどれも完璧にしなければなりません。心にかかる重圧はとても大きかったです。
 突然始まる非現実的な環境、聞いたことのない専門用語や係争の仕組みを調べながら、それらの事象と共に毎日鋭く生きなければならない事は本当に大変で、とても辛いことでした。
 無かった事にはできない。許すわけにはいかない。しかし、どんなに怒り泣き叫ぼうが、時間や失ったものは戻らない。そんな残酷な現実を突き付けられながら、過ごす日々は気が狂いそうで、深い悲しみの光の射さない海のどん底に流され彷徨うような毎日でした。
 人を憎しみ続ける事や、大きな怒りとともに生活しなければならない事は、大変なエネルギーを必要としましたが、加害者たちが次々と責任を放棄し去ってゆく姿に、私はいつしか「怒りと苦しみの塊」になっていました。どうして被害者が怪我の治療・看病に専念できないのか?加害者はなぜ謝りに来ないのか?
 ならばその怒りと憎しみを、法を犯してでも加害者へぶつけたい・・・と犯罪者になりそうな自分がいました。苦しみは幾重にも折り重なってゆきました。
 人を憎しみ続け、大きな怒りとともに生活しなければならない事は大変な不幸です。
 事故発生直後の被害者や家族・遺族は、現実を受け止めることだけで精一杯で、混乱して冷静に考えることができません。被害者支援についての資料をもらっても、時間も心の余裕もなく、文書を理解できません。突然に巻き込まれた出来事に恐怖を感じ、誰の言葉も信じられません。
 何を苦しみ、何に困っているのかは、被害者本人やその家族・遺族にも分かりません。
 ですから、事故発生直後から、被害者やその家族や遺族に経験や知識のある人が直ぐに駆けつけ、そばにいてあげる事がとても大切だと思います。
 私の場合、事故当日に急ぎ息子が搬送された病院へ駆けつけたものの、全く縁もゆかりもない知らない土地であったため、食事ができる場所や入院に必要な買い物をする場所、宿泊をする場所等を探すのに大変困りました。
 また大怪我を負った息子の姿にショックを受け、普段なら簡単にできるであろうこともできなくなり、無駄に時間が過ぎてしまいました。
 駆けつけた家族の世話等は、本来は加害者である旅行会社がするべきで、国などの機関に求めるのもおかしなことと思うかもしれませんが、被害者が多数出る公共交通の事故の場合は加害者側の関係者だけでは無理があります。
 そのため国を挙げて、日本中のいつ何所でこのような悲惨な大事故が起こっても、被害者とかけつけた被害者家族を支える体制を整えておくことが必要であると思います。
 最低限でも、被害者、家族が治療と看病に専念できる環境を作ってほしいと思います。
 また事故は必ずしも県庁所在地付近で起こるとは限りません。多くの負傷者を、都道府県、市町村をまたいで救助できる連帯体制、搬送できる多数の救急病院の整備など、日ごろから連絡を取り合い、訓練を行うなどの準備をしていただきたいです。
 私は事故後から、大変な時をかけて、警察や民間の被害者支援団体、弁護士等、多くの専門家に色々と教えてもらいました。でもそれがもっと短時間で全て解れば、もっと近道できたかもしれません。遠回りした分、彷徨い苦しむ時間が長かったです。
 様々な人に「いつでも教えてあげるよ」と言われても、必要な情報は何なのか、何が分かっていないのかすらも被害者側には分からないわけです。
 まして日本人は「自分の事は自分でする」「弱音を吐く 弱みを見せることは恥」「権利を主張することははしたない」という傾向にありますので、なかなか他者に本音を言えません。我慢したり、素人なのに何でも自分でしようと無茶をします。
 「いつでも言ってください。何でもします。」と言っていただいても、他人にお願いすることはとても苦手です。「大丈夫ですか?」と聞かれたら「大丈夫です」と答えてしまいます。
ですから、例えば「今夜寝るところはありますか?」「ご飯は買え
ましたか?食べられましたか?」などと、具体的な事例を上げて導いていただくと助かります。
 傷ついた人の心は、人の心でしか癒せない。
 真っ暗な暗闇の中にいるような被害者等に誰かが寄り添ってくれたら、その時すぐに何かできなくても心の支えにはなります。被害者等は「一人ではない」と思うだけで生きていけます。
 もしも私が一人ぼっちだったら、ベットの上に寝ている息子といつか心中していたかもしれません。
 今思えば私は、警察や民間の被害者支援団体の皆さんが理解してくれているという安心感があったからこそ、何とか生き続けられたし法も犯さずにいられたのだと思います。長い裁判へも通いきれました。
 凍りついた私の心をゆっくり溶かしてくれたのは、それらの方々の温かい心でした。
 私と同じく、何の知識も経験もない家族や友達では、私を支えることは出来ませんでした。私の置かれた環境、加害者との争い、毎日の苦しみを、言葉で家族や友達には伝えきれませんでしたし、その人たちまでも苦しみの渦の仲へ引き込むようなことはしたくなく、愚痴や泣きごとは言えませんでした。
 安心して相談できる専門知識のある人々に寄り添い支えてもらう事は大変にありがたく、私にはとても必要でした。
 私の話を聞いてくださった方々は最近になり、「何もできなかったね。力になれなくてゴメンね。」と言ってくださいますが、そんな事はありません。心寄せてくれる専門職の人がいるだけでそれは大きな心の支えになり、そして前へ進むエネルギーになりました。
 長く暗いトンネルの中にいる被害者に寄り添う人がいれば、時がかかってもいつか必ず出口が見えてきます。出口を探し、脱出するのは被害者自身がすることではありますが、そこまで一人で歩いて行くことは無理なのです。理解し、寄り添ってくれる人が必要です。 ですから、困ったときに何でも相談できる被害者支援団体はとても大切で必要なのです。
 私は、このような被害者支援団体が全国にあることを被害者の家族となって初めて知り、大変お世話になりました。
 皆さんはいつもそっと寄り添い、支えてくださいました。心から感謝しています。これからも、辛い時は話を聞いていただきたい、困ったことがあれば、相談をお願いしたいと思っています。
 事故のショックと、その後加害者側と長く戦い続けたことよりできた私の心の傷は、知らぬ間に魔物となり私の中に潜んでしまい、時々暴れるということを、私は最近になって知りました。なにげない日常の中で突然 PTSD によるフラッシュバックがおきたのです。
 この魔物が次にいつ暴れだすかは私にもわかりません。私はこの魔物と一生付き合ってゆくのかもしれません。体調にも波があります。「時が解決する」というのが当てはまるのは、加害者だけではないでしょうか?数年後に運転手が刑を終えて出所した時、彼は罪を償ったつもりになるかもしれません。
 しかし、私たちの受けた被害は心と体に傷あとを残しました。失った時間も、描いてた未来も、もう戻ってきません。
 時は、私たちの受けた被害を消してはくれません。
 最後に、公共交通事業者は、社員一人ひとりが「大勢の人の命を!」物ではなく「命を人生を運んでいる」という自覚を持ち、安全第一に運行して欲しいです。過去の悲惨な事故を思い出せば、どの部署の人も絶対気の抜けない仕事のはずです。
 また乗客の命を預かる責任の大きさは、大手も零細企業も関係ありません。事業所の規模の大小にかかわらず、等しく責任を持って被害者支援を行ってほしいと心から願います。
 私たち国民は、どの乗り物も等しく安全であり、もしもの時にもきちんと対応してもらえると思い、安心してチケットを買って乗っています。今の日本において、東京駅で、地方都市で、インターネットで、空港で・・・どこで買ったら安全で、どこならそうでないかなんて考えてチケットを買う人はいません
 「命を運ぶ乗り物」のチケットを売る業者にも、自覚となんらかの責任をもって欲しいと思います。