意見陳述書

特定非営利活動法人ひょうご被害者支援センタ一

尾 松 智 子

 信吾が亡くなってから一ケ月。二階の部屋からは信吾の声や足音が不意に響いてくるような気がします。階段の下から何度「信吾」と大きな声で叫んだか知れません。お母さんの文句をいつも言っているくせに、すぐその後にも「お母さん」と何度となく電話を入れる典型的な一人っ子の甘えん坊だったように思います。  初めての保育園のお泊り会。自然学校やキヤンプ。私が淋しくて時間ぎりぎりに送って行ったこともありました。当の本人はそんな私の気持ちも知らずに、喜んで友達の輪の中へ。親から離れ自立していく信吾を見ていて、嬉しいやら淋しいやら複雑な気持ちでした。その時でさえ信吾と出来ることなら一緒について行きたかった。その信吾ともう二度と話せないし、会えない。一生お母さんと呼んでもらえることも出来ません。又、信吾と一緒に付いて行ってやることも許されません。私自身の両親に、この同じ辛い思いだけは味わわせることは出来ません。何度かふと、電車に飛び込んだら…と思うのですが、主人や周囲の人々の励ましで何とか、この一ケ月、一日一日過ごすことが出来ました。  主人の実父は脳梗塞で倒れ、闘病生活の末、この三月に他界いたしました。畑仕事に出かければ、そこで父の姿を思い出し、乗らずじまいになってしまった車、主のいない部屋を見ては信吾のことを思い出し…。私と違って主人は、少しぐらいのことでは参るような人ではないのですが、今でもふと涙を流していることがあります。
 今一番辛くて辛くて、本当に自分の気持ちの中で整理しようのないこと、もっていきようのないことが、やはりあの事件のことです。信吾がどんなことをされ、意識を失いつつどんな思いでいただろうかと考えると、本当に辛くて仕方ありません。頭が痛くて、血管がどこかで切れてしまうのではと思うこともしばしばです。身を引き裂かれる思いです。一番訴えたいけれど、一番思い出したり書いたりするのに耐えられないのが事件のことです。
 信吾が亡くなってから、警察で状況をお聞きし、本当に残虐なことをされた信吾の痛みや悔しさを思うと、日に日に悲しみは癒されるどころか、募る一方です。
 数十回殴る、蹴るの行為。モップや工事用のコーンで殴る。ニ・四メートルの溝に落とされ、脚立を投げつけられる。その後も再び私の軽乗用車の狭いトランクに積み込まれ、違う場所に連れて行かれ、暴行を受ける。どこまで意識があって、何を考えていただろうか。どれほどの痛みに耐え、遠のく意識の中で、誰か助けて、お母さん助けてと心の中で叫んではいなかっただろうか。あんな狭いトランクの中に、小さく体を折りたたまれ、何を思っていたのだろうか。溝からどうやって這い上がってきたのだろう…。心の中で繰り返し繰り返し、信吾のことを考えてしまいます。
 人間として、心ある人として、こんな残虐なことが、本当に出来るものなのでしょうか。普通であれば、どんな時であれ、誰もが救命を第一に考え、行動します。怪我をしたひとの命を何よりも優先させ、状況に応じた適切な処置を考えるのは、当然のことです。しかし今回の四人は、成人であり、一人の大人としての判断力も有ったはずなのに、信吾を助けることも無く、逆に信吾の命を絶ってしまいました。病院に運ばれてから、自力呼吸をすることも無く、瞳孔も開いたままの状態で、頭部外傷Ⅳ型だったと聞きます。たった一人の人間を、そこまで、殺してしまうところまで、四人がかりで痛めつけると言う行為に許すことの出来ない、墳りを感じます。事件のあった場所にはもちろん、その近くを通ることも、今の私には出来ません。信吾が運ばれた自分の車を見ることも、車の運転をすることも出来なくなってしまいました。一人で家にいることも、気が狂いそうで出来ず、泣いては自分を励まし、励ましては泣くの毎日です。
 高校をこの三月に卒業し、やっと社会人として色々なことが出来ると、どんなにか楽しみにしていた信吾のことを思うと、命ある四人に比べ、信吾がかわいそうでかわいそうでいたたまれなくなります。どんなことをしても信吾は帰ってきてくれませんし、一生お母さんと呼ばれることも出来ないのです。
 五月三十日に運転免許を取ったばかりでした。欲しくて欲しくて仕方がなかった車が、探し探してやっと来たと言うのに…。あんなに楽しみに待っていた車に一度も乗ることなく逝ってしまいました。海へも行ってみたいし、都会にも遊びに行きたいし、二十歳の成人式にはギヤルソンのスーツを着ると言っていたし、自分の子供が十歳になったらもう一度、私とともに登った富士山にもう一度登るんだと。そして自分の好きなトトロのビデオを子供に見せるんだと…。私には長生きせなあかんで、オレが付いているから…と。何もかもかなわずじまいでした。この無念さを思うと耐えられなくなるし、四人の加害者に対する怒りが込み上げてきます。
 初公判が八月四日と決まりました。口を二度と利くことの出来ない信吾、無念の中で命を奪われてしまった信吾のために、私に出来るたった一つのこと、それはこうやって裁判を進めていただく関係者の方々に、許されれば私共の今の気持ちを伝えさせていただくこと、それが精一杯のことです。
 加害者の一人が、「生きているのが辛い。」と私共に手紙の中で述べておりました。辛いと感じる命があなたにはあるし、もう一度社会を歩んでいけるチヤンスが命ある限り訪れることでしょう。正直なところどんな言葉も私共には響くことはありません。罪の無い人間の命が奪われたのに、どうして罪を犯した人間がこの世に生きているのでしょう。私共は正直なところ出来ることなら、許されることなら、四人の加害者に、信吾と同じ状況下で、信吾の受けた痛みや苦しみを同じように体験して欲しい。そして私たちが生きている限り、加害者の命がある限り、この社会には出てきて欲しくはない。出来ることなら極刑に処して欲しい。そう願わずにはおれません。信吾や私たちの受けた、又これからも受け続けなければならない、精神的ストレス、そして苦しみを、この四人の加害者に与えたい。それが出来るのは、極刑、死刑しかない、そう考えています。
 生きている限り、加害者と言えども、その人の人権が守られることでしょう。しかし命が無くなった信吾の人権は一体どうなったのでしょう。こんなに悲しいことがあるでしょうか。命は二度と取り返すことが出来ません。犯した罪は本当に償うことが出来るのでしょうか。命有るものに対し行った残虐な行為。与えた精神的な苦痛。罪の無い人の命まで奪ったと言う事実に対し、取り返しがつかないことなのだと厳しく厳しく法の下、裁き追及していただくことを心からお願い申し上げます。
 初公判では、四人の加害者と初めて顔をあわせることになります。さらに知らない事実を聞かされることもあるでしょう。そのことを思うと辛いと言うよりも怖いです。でも信吾はその事実に耐えて命を絶ったのですし、ちゃんと事実を知っておかなければ、信吾の無念さを晴らすことは出来ないでしょうし、私自身ももっともっと辛い思いで一生を送らねばならないでしょう。知ることも辛いでしょうが、知らないことの方がもっともっと辛いことだと思います。事件のことに関し、加害者に対し、何も口を利くことが出来なくなった信吾に代わり、公判を見守って行きたいと思います。
 たった一人のわが子を、十九歳と言う若さで突然失わなければいけなくなった親と本人の無念さをご理解いただき、ご尽力いただきますよう切に切にお願い申し上げます。

平成十二年八月