被害者を「気の毒な人」と見るのでなく、英雄視したり単純化したりするのでもなく、できるだけ実態に近い姿やその人の言葉を伝えることは、世の中の偏見や誤解、「被害者ってこういうもんだ」という思い込みや決めつけを変えていくのに、何がしかの力を発揮するのではないでしょうか。複雑な現実を複雑なままに伝えることは、「より速く、より短く、よりインパクトが強い」ものが求められる昨今では、さらにむつかしいことではありますが、社会政策の改善を求めたり、より適切な支援を探ったりしていくためにも、必要なことだと思います。
1999年に日本弁護士連合会(日弁連)において犯罪被害者支援委員会(当初の名称は「犯罪被害者対策委員会」、以下「支援委員会」という。)が設置されたが、私は2000年に委員として参加し現在に至る。2009年度及び2010年度には支援委員会の委員長を務めた。支援委員会の当初の10年間は犯罪被害者等(以下「被害者」という。)の権利の確立を求めるとともに、被害者に対して弁護士は何ができるのかを模索して、支援委員会も私自身も無我夢中で活動していた。
日本財団は犯罪被害者支援に取り組む中で、支援に携わる多くの方々のお話を伺い、我が国の犯罪被害者支援が未だ十分とはいえない点があることを痛感しております。そこで、民間による真の被害者支援のために、必要なことは何かを問い続けながら、助成事業の在り方を求めて参りました。
私が犯罪被害の問題に取り組むようになったのは、犯罪被害者等基本法(以下、基本法)の制定以後のことであり、この分野の研究者としては「若輩」ですが、このような執筆の機会を与えていただき感謝いたします。犯罪被害者にかかわる動向を俯瞰すると、経済的支援、精神的ケアから始まり、被害者の権利獲得のための運動、そして近年は被害者のニーズを満たすための制度・施策等の推進へと大きく流れが移ってきています。そのような流れのなかで社会福祉(ソーシャルワーク)が果たす役割は大きくなっています。
犯罪被害者支援の歴史と犯罪被害者の遺族の活動は深い関わりがある。犯罪被害給付制度以前、公的な犯罪被害者支援がない現状に対して、1967年に息子さんを殺人で失ったご遺族である市瀬朝一氏が「犯罪による被害者補償制度を促進する会」を立ち上げたことが最初の草の根の活動であったとされている。その後三菱重工爆破事件(1974年)を契機に1980年に犯罪被害者給付制度が設立されるが、残念ながら市瀬氏はその制度の設立を見ることはできなかった。犯罪被害給付制度は国による最初の被害者への経済的支援であったが、この時点では被害者のメンタルヘルスのケアはまだ支援の対象とされていなかった。