犯罪被害者の救済を目指して、京都の同志社大学学生会館において、「犯罪被害者補償制度を促進する会」(以下、「促進する会」と略す)を立ち上げ、殺人犯罪の被害者のご遺族やご家族の皆さんと共に市民運動を始めたのは、今から45年前の1973年のことであった。
被害者支援の言葉すら社会一般に理解されなかった設立当時を振り返り、この22年間に日本に於ける被害者支援は、2004年の「犯罪被害者等基本法」の制定、2005年「犯罪被害者等基本計画」の閣議決定以後、各都道府県市町村に至るまで支援活動の拡がりが大きく飛躍するあゆみに民間団体として被害者支援の充実を願い、その一翼を担っての活動に深い感慨を覚えている。
日本での被害者支援活動は新しい分野であったため、支援に携わる人たち皆さんが最初からその理念を理解し、支援スキルを持っていたわけではない。被害者から電話相談を受けて共感し、傾聴するという姿勢の支援だけでは被害者には不十分だった。
犯罪被害者相談室(以下、相談室と略称)の活動が充実して行く中で、全国各地から同様の組織を近くに作ってほしいという声が寄せられるようになった。それとともに、相談室の活動目標も、単に被害者の電話相談に応じ、或いは面接相談やカウンセリングを通して犯罪被害者の心情、実情を知り、可能な支援をするという所期の目標を超えて、この活動を全国に広め、アメリカ等で行われているような早期直接的支援に進化させたいという思いが強まってきた。
歩道を歩いていた長男が飲酒運転の車に轢き逃げされて亡くなった。まだ18才だった。 警察からの知らせに「友達の車にでも同乗していたのかな?たいした怪我でないので大丈夫」と根拠もなく自分に言い聞かせ、がたがた震える体でバッグにパジャマ類を詰め込み、大急ぎで病院に向かった。救急室に入ったとたん「お母さん遅かった…」と看護師さんから言われ、一瞬何のことなのか分からず立ち尽くした。現実を突きつけられ「どうして、なんで、うそ…、イヤー…」と泣き叫ぶしかなかった。ただただ悲しくて可哀想で涙が溢れ、入院用にと準備してきたティツシュはあっという間に無くなった