「あんなことさえなければ」
~癒えない苦しみが続く日々~
公益社団法人おうみ犯罪被害者支援センター
匿 名
「犯罪被害者の声 第16集」より
私は昭和13年生まれの79才です。
20年間の闘病生活に耐え続けた夫が亡くなり、その前には大好きだった姉も亡くなり、近くに親族は誰一人いない、私は寂しく辛い独居生活を送っていました。
そんな時に、市から「地震の家具転倒防止器具取り付け申し込み」の許可が届きました。
夜の7時ころに事務担当の女性から電話があり、後日、作業の男性が自宅へ設置工事の下見に来ました。
お願いしていた台所の食器棚と冷蔵庫を見てもらうと「冷蔵庫はできない」と言われ、「それなら2階に置いてある、夫が遺した本棚をお願いしたい」と言いました。
すると、その男性は私より先にさっさと2階へ上がっていって「奥さん、ここで寝てるんか」と聞かれて、「はい」と応えましたが嫌な感じでした。その日はいろいろと寸法を測って工事の日を決めて帰っていきました。
ところが、決めた工事の日ではなく翌朝に、突然その男性がやってきました。
何の約束もなく、きゅうりを3本持って「トイレ貸して」と言って入ってきました。
「他の家に行った帰り道や」と言って、汗だくでした。
私は「工事でお世話になる人だし、せめて麦茶でも」と思って用意をしていると、その人は部屋の中をのぞきこみ、お仏壇の夫の遺影を見て「おっさん死んだんか。さみしいやろ」と言いました。
そしてあつかましくツカツカと台所を通り抜けて部屋に入り込んでくると、夫が食事をしていた場所に勝手に座りました。持ってきたキュウリを包んでいた新聞紙を広げて「この一番太いきゅうりより…」「妻とは…」「他の女は…」などと性的な話をし始めたのです。
そして私の胸をじっと見て、失礼なことを言ったかと思うと、ヌッと立ち上がって私の右側に回り込んで急に襲い掛かかってきました。
びっくりして大声で叫びましたが、誰も助けに来てくれる人はいません。
男は首から肩に手をかけて胸を触り続けました。
私が「やめてください」と抵抗しても無視。
すっごい力でズボンの中にも手を入れてきて、両足で私を抑え込み、下着の中にまで手を入れ、指を入れて「奥さん…」と卑猥なことを言いました。
私は精いっぱいの力で抵抗しました。力が尽き果てるまで抵抗しました。でも全く聞き入れられず、痛さにただただ我慢していることしかできませんでした。
翌日、かかりつけの病院に行き、足の腫れと身体の痛みが残っていることを相談すると、すぐに「これは犯罪なので警察へ」と言われました。姪にも連絡して、警察官も来てくれて、詳しい話を聞かれました。
刑事さんが性被害支援専門の医師や看護師さんがいる病院まで連れて行ってくれて、男の爪で傷つけられたケガの治療や感染症の検査をしてもらいました。
息子も来てくれました。病院の皆さんも、みんなが私に優しくしてくれました。
でも、その日は私の誕生日だったのです、なぜ私は誕生日にこんなにつらく悲しい思いをしなければいけないのかと涙が流れました。
刑事さんからは「こんな被害に遭った後に、この家に一人でいることは危険だ」と言われ「自宅に戻ってはいけない」との指示で、私はしばらく姪の家にお世話になりました。
あんなことさえなければ、と思います。
被害に遭った者は、どれだけの悲しみと残酷な影響を受けることかを知りました。
必死で抵抗したときに捻挫した足の痛みと、傷付けられた身体の痛み、それに加えて心が悲鳴を上げていました。男の言った言葉がいつまでも耳から離れず、PTSDを発症していました。
寂しさ辛さから逃げ出したい、耐えて耐えての暮らし、誰にでも話せることではない、生きていることさえむなしくてむなしくて、私は死神に取りつかれたと思いました。
夜になると、死ぬことばかり考えました。毎晩、お仏壇の前で亡き夫に向かって「迎えに来てほしい」とお願いしていました。どうすれば死ねるか、そればかり考えるようになりました。
以前に「この橋の上から飛び込んで助かった人はいない」と聞いたことがありましたので、ついに「今晩こそは…」と飛び込み自殺の決意をしました。
夫のお骨をポケットに入れて、それを握りしめて、深夜に家を出て歩いて行きました。
でも、橋に向かう道で、「これでは犬死になってしまう」「きちっとけじめをつけてからでも遅くはない」と、そう思って考え直しました。
そして家に戻った私は、お布団の中で「なんで…なんで…」「なんで私が…」と、天にいる夫と姉に訴え、いつまでも号泣していました。
何度も仕事を休んで駆け付けてくれた姪には本当にお世話になりました。
優しく励ましてくれた、おうみ犯罪被害者支援センターの方には何度も支えてもらいました。そのおかげで生きてこられたと思っています。
それでも、今もまだ、どうしていいかわからない、忘れることができない。
日々、苦しみは癒えることなく続いています。
この事件は平成29年、真夏の出来事です。
被害に遭われたA さんは、事件後、警察署や検察庁で被害の時のことを何度も聞かれて、一時はそれに耐えきれなくて、訴えを取り下げて終わりにしようかと思われたこともありました。
それでも、許せない気持ちは強く、辛さに耐えて頑張り続けた結果、加害者は起訴されました。湖岸からの冷たい風が吹きつける真冬になって、ようやく裁判員裁判が始まりました。
A さんは証人として出廷し、証言席から検察官や相手の弁護人の質問に答え、裁判長や裁判員に向かって、被告人の卑劣さや被害を受けてからの苦しかった日々のことをしっかりと話されました。
平成30年2月、被告人に「懲役3年執行猶予4年 その期間中保護観察を付す」との判決が言い渡されました。
裁判が終わったからと言って、それで被害が解決し何もかも終わるわけではありません。もちろん支援も終わりません。
このA さんの手記を読みながら、二人で一緒に病院に行った時のこと、弁護士事務所で何度も相談した日々のこと、検察庁に通った冬の日、証言台の横に座って涙ながらに話される姿を見守っていた時のこと、そんな日々が昨日のことのように思い出されます。
あの日から4年が過ぎた今、A さんと支援センターの相談支援回数は電話・面接・直接的支援などを含めて250回を超えて、今も続いています。(OVSC 支援担当者)