新たなる光―そして、未来へ―
公益社団法人かがわ被害者支援センター
M・K
「犯罪被害者の声 第14集より」
あなたが今、伝えたいことは何ですか?
ずっと、ずっと辛くて苦しかった。
もがいてももがいても、何も見えない。
出口を探しているのに、どこを走っても
どこを探しても、何も見えない。
見つからない。
光が見えない。まるで箱の中に閉じこめられているようで、何もわからない。
私はここに居るよって、何度(ずっと)も何度も叫び続けているのに、誰も見つけてくれない。気づいてもくれない。一人、暗闇の中でうずくまり、怯えながら私は過ごしてきた。
気丈に振る舞いながらも、いつもいつも、気を張りつめていた。
ただひたすら、忍び寄る魔の手から逃げる為に必死だった。
被害にあったという過去から逃れる為に自分で自分を守るのに、ただ、ただ必死だった。
忘れもしない、今でもハッキリ覚えてる。私の心は2 度、壊されたのだ―。
小さい時から、いや、生まれた時から私はずっと虐げられてきたのだ。
大人になった今でも変わらない。
生後半年で、母は私達を捨て蒸発したのだ。私達を捨てた一年後、経緯は不明だが、母が見つかり、戻ってきたと親族から聞いた。
私には4 つ上の兄と、3 つ上の姉がいた。母が蒸発した時、兄姉は3 〜 4 才だったから、母の記憶はあったのだろう。
私の心を壊し、一生消えることのない傷を植えつけ、懸命に生きようとした私の自尊心すらも傷つけたのは、この兄姉だった。
幼少期から、4 つ上の兄に、人とはズレた性癖があることには気がついていた。
生物としての本能かもしれないが、幼心に違和感は拭い去れなかった。
体を触られ、服の中を覗かれ、意味不明な理由で抱きつかれる等、性的で卑猥な嫌がらせを繰り返されていた。
どう考えても間違っているし、おかしいことには気がついていたが、誰かに話すことは出来なかった。
私は、この家の中では、ただの付属物にしか過ぎなかったのだ。
兄も己の行為が正しいとは思っておらず、どこかにやましい気持ちはあったのだろう。
兄が私に嫌がらせをする時は、必ず誰もいない時や、寝ている時を狙っていたのだから。だったら、最初からやるなよ!と私はツッコミを入れたいくらいだった。
小2 でネグリジェの上から体を触られ、キスをされた。
下半身を丸出しにして、私に見せつける。
中2 の夏、台所で立っていた私の真横に無言で近寄り、服の中をのぞきこむ。
夏だとハッキリ覚えているのは、タンクトップを着ていたからだ。色も覚えてる。
高3 、ベッドで寝ていた私の背後からもぐり込み、「〇〇も彼氏とこんなことしよんか?」などと言う始末。
この日、姉の結婚式だったにも関わらず、腹わたが煮えくり返る思いだった。
怒鳴りちらしたら、スグにやめはした。
そして、忘れもしない丁度20年前のあの日、決定的な事件が起きたあの日、私は実の兄に強姦されたのだ。(西暦2000年、平成12年11月26日(日)午前1 時)
事もあろうに、その日は兄の、兄自身の結婚式だったのだ。
何が起きているのかもわからなかった。
頭の中は真っ白だった。
いくら抵抗したくても、力では叶わない。
私にはどうすることも出来なかった。
兄は一通りの行為を終えた後、ゴミ箱に証拠を残しながら、自分が寝ていたベッドへ戻っていった。
ありえないことが起きたにも関わらず、何故か私の頭の中は異常に冷静だった。
私はどうするか考えた。
事件当時、時刻は深夜1 時。
義姉になる新婦と新婦母に話すべきか、報告すべきか迷った。
今なら、まだ間に合うと思ったから。
もし、まだ籍を入れていないのなら、間に合うと思ったからだ。
仮に、籍を入れていたとしても、日が浅い今なら、人生をやり直してもらえると、そう思ったからだ。
親族から私が悪いと責められて、絶縁されたとしても、新婦の為になると思った。
だが、新婦の泊まっているホテルがわからない。ホテルがわかっても、そこに行くまでの交通手段がなかった。
刻一刻と時間が迫る中、私は何も出来ずにいた。
本音を言えば、誰も信じないだろうし、信じてくれないと言うのが怖かった。
事実であるとわかっても、私一人、責められることが、何よりも怖かった。
ごめんなさい、ごめんなさい、勇気が出せなくてごめんなさい。
(〇〇(新婦)ちゃん、ごめんなさい)
そのまま式と披露宴は、何事もなかったかのように進められた。
式が終わり、私は当時住んでいた関西へ戻った。
感覚がマヒしていたのか、被害にあったという実感がなかったのか、日常生活での変化は見られなかった。
その後、無意識に現れるPTSDに苦しめられ、何度も苦労やトラブルを抱え、生活苦に陥った私は、実家に帰ることを余儀なくされたのだ。
ここからが、新たな地獄の始まりだった。
母の私に対する暴力行為、金銭の使い込み、殺人未遂に値する動向、職場への無駄な進入。
父の、母同様、私の金銭の使い込み、恫喝、間接的なセクハラ、兄の度重なるわいせつ行為だった。
国家公務員の息子である兄がいるにも関わらず、未成年の、しかも当時高校生だった私が働いて稼いだお金を、根こそぎ持っていく様な人間の金遣いの荒さなど、治るハズがない。
私は、いつまでたっても、都合の良い、道具でしかなかったのだ。
何よりも許せなかったのは、母が倒れた時布団で苦しんでいるにも関わらず、その真横で私に性的行為を強要してきたことだった。
上下下着だけになり、「〇〇こっち来てみ」と、手招きをしながら手を出してきたのだ。
何度か拒否してにらみつけるも、背後から抱きつかれ、胸をさわられたのだ。
怒りがこみ上げた私は、キッパリと言った。「やめなよ! 〇〇(義姉)ちゃんやって〇〇(子)やっておるのに何しよんや!!」
と言うと、諦めたのか、私から離れた。
危険な状況になることはわかっていたが、やむを得ない事情の為、母、兄、私、の三人になったことは伝えておく。
当時、実家を出て一人暮らしをしていたが今思えば、タクシーに乗ってでも、帰るべきだったと、少し悔やんでいる。
だが、よくよく考えれば、給料日前で手持ちがなかったのだ。
(ここは、大いに笑って頂きたい)
もし、この状況で警察を呼んでいたら、今頃どうなっていたのだろうと、ふと思ったりもする。
次の日、自宅へ戻った私は、酷く疲弊していたのか、中々寝つけなかった。
その時、着ていた服も脱ぎ捨て袋に入れた。
しばらく置いていたが、一刻も早く忘れたかった私は、その時の服を、ハサミで刻んで処分した。
今思えば、置いておくべきだったと、少し後悔に近い思いもしている。
正直、ここまで腐っていたのかと思うと、声にならない怒りがこみ上げ、憤りを隠せなかった。
実家を出て一人暮らしをする際も、荷物を運ぶことを理由に、何度か接触してきたが、部屋の中で性的行為をするのが見栄見栄だったので、断固拒否した。
逆ギレされたが、母が倒れた時の話を持ち出すと、黙り込んだ(ざまぁー)。
親族間での接触が減っていったものの、精神的にも金銭的にも余裕が無くなった私は、日々の生活を送るので精いっぱいだった。
表に出ることが出来なくなった時もあり、何かを忘れるかのごとく、手元にあったお金もあるだけ使い、物欲を満たし、休みの時は一日中ボーッとしていたり、何度か死のうと思ったこともあった。
海へ行き、飛び込んだら楽かなーとか、餓死した方が楽かなーとか、度々楽に死ねる方法も考えていた。
何度か異性と付き合っては見たものの、結婚に至ることはなかった。
過去の出来事を知られ、また一人になってしまうのが怖くて、付き合っては理不尽な行動を重ね、相手に嫌われるといった行動を繰り返していた。
嫌われて一人になるくらいなら、最初から一人でいた方が気楽だと、段々と、人から離れ、孤立する様に、自分からしていった。
一度、手に入れてしまえば、失うのが怖くなる―。
私は大切な物を持ちたくなかったのだ。
平成23年頃、後悔したくなかった私は、無駄だと半ば諦めながらも、やれるだけのことはやってみようと、行動を起こし始めた。
ネットやフリーペーパーで弁護士や法律について調べまくった。
良心的な所もあれば、儲けにならないとなると、話すら聞いてくれない所もあった。
ある時、姉と会うことになった私は、思いきって打ち明けることにした。
強姦されたことは伏せ、母が倒れた時のことと、過去のわいせつな行為だけを話した。
姉も、思い当たる節があったのか、姉自身も、わいせつ行為をされたことがあると、話してくれた。
私は正直驚いた。
いつ、どこでそんなことが起こっていたのだろうと思ったからだ。
「気づいてやれんですまんかった」と、姉の口からこの言葉が出た瞬間、私は動揺を隠せなかった。
が、一瞬喜んだのも束の間、次の瞬間、私の心は砕け散ることとなる。
「でも、公務員はストレスがたまるきんしょうがない。ウチは子供やって3 人おるし、旦那やってまだ仕事してもらわな困る。変なウワサになったら近所でも何言われるかわからんし、お前はまだ一人やからどうにかなるやろ?スマンけどこらえてくれ」
私はどのくらい静止していたのだろうか。
頭の上から足の先までストーンと冷めた感じがした。
子供のマックの飲食代すらケチって私に払わせる人間に理解を求めたのが間違いだった。
今になって、ようやく悟ったのだ。
私の気持ちより、自分の立場と世間体を優先したのだ。
それと同時に、私は、自分のつらかったと言う気持ちを誰かに解ってほしかったのだとようやく再認識することが出来た。
棚からぼたモチ?一石二鳥、どっちも違うか。
姉に話した一年後、私は運悪く別のトラブルに巻き込まれ、それがキッカケとなり、法テラスを知ることになる。
詳細は、また別の機会にしたい。
平成26年4 月、私は私の運命を変えるキッカケとなった、A先生に出会った。
有料ではあったけれど、何もしないよりはマシだと、私は相談会に踏み込んだ。
また、適当にあしらわれるんじゃないかと少し不安はあったけど、私は一通り話をした。
この時、A先生が紹介してくれたのが、支援センターだったのだ。
住所と連絡先を聞き、A先生にお礼を言い私は相談室を後にした。
最後にA先生が私にかけてくれた言葉を、今でも覚えてる―。
「大丈夫です。安心して下さい。あなたの味方は必ずいますから―。」
どれほど嬉しくて、どんなに心強く、私が救われたことか。
A先生がこれを読んでくれるとは限らないけど、今、改めて伝えたい。
「A先生、ありがとう」
相談室(弁護士会館)を出た私は、直ぐ支援センターに連絡を入れ、訪問日を決めた。
訪問日当日、今となっては笑い話にしているが、電車で支援センターに向かっていた私は、乗り換えを間違え、岡山ヘ行きかけた。
道に迷いながらも何とかセンターへ辿り着いた。
ここからが、私の新たな始まりとなった―。
それからは、トントン拍子に話が進んでいった。
センターに行ったタイミングが良かったのか、次の訪問日に、またもや素晴らしい先生に巡りあうことが出来たのだ。それがT先生だ。
支援センターの方々が、「よく頑張りましたね」「一人でツラかったでしょう」と言ってくれてはいたが、その時の私には、その言葉の意味がまだわからなかった。
私にとっては、どちらも当たり前だったから。
T先生と訴訟を進めて行く中で、A先生と同様に嬉しかったことが一つある。
「コレ、酷いですね。許せませんね」の2 つの言葉だった。
自分の気持ちを理解してくれる人がいる。
それがこんなにも嬉しくて、幸せなことだなんて―――。
実の姉からの理解すら得られなかった私にとっては、かけがえのない救いの言葉だった。
法テラスへ行き、警察署へ行き、関係者とやり取りをすすめる中、私は、一喜一憂を繰り返していた。
余程の事がない限り、一般市民が警察署へ行くなんて嫌だろうに、私は、普段見ることの出来ない署内が見れると、テンションが上がっていた。
今考えれば、少し不謹慎だったかもと思う。
担当の刑事さんと話をする中で、私が酷く非難され、責められる事があったが、それについては、センターのスタッフを介し、説明があった。
法廷で争うことになった場合、相手の弁護士から、容赦のない言葉が浴びせられると、その時に耐えられるようにと、のことだった。
いじめている訳ではないと言ってくれたが、それならそうと先に言え―――と、私は心の中で思った。
そして、ついに告訴状が出来上がったのだ。
そこからは、警察、検察の加害者の事情聴取となり、一段落するまでは、検察からの連絡待ちとなった。
キリ良く年内での区切りをつけたかったが、思ったより時間がかかるものであると、初めて実感した。
年が明けた平成27年2 月、検察で私の聴取が始まった。
思った以上に事細かく聞かれ、意外にも時間がかかり、それなりに疲弊していた私に、検事さんが、加害者である兄のことを話してくれた。
離婚して単身者であること、メンタルクリニックに通っていること、警察からも呼び出しがあり、事情聴取を受けたこと、そして、兄の反応を見て、間違いなく危害を加えたと確信したことを―――。
強姦したことについては、時効もあるせいか、あっさり認めたらしい。
刑事さんも、検察官の方も、確信があったからこそ、罪を認めさせる為に、私の為に粘ってくれたのだ。
気持ちがわかっただけでも、私は嬉しかった。
だが、情況証拠のみの物証のない案件なだけに、それ以上、進展することはなかった。
平成27年7 月、刑事さんから連絡が入り、捜査の為に預けていた資料を取りに行った。
その際、事情を知る一部の親族にも連絡を取り、警察署内で話を聞いたことを教えてくれた。
そして、同年7 月下旬、不起訴で事件が終息したことが伝えられた―――。
今思えば、虚しいとか悔しいとか言った思いは、不思議となかった気がする。
それでも、やるだけ無駄だったのかと少なからず思わずにはいられなかった。でも、「それは違う」と、弁護士の先生達が言ってくれた。 「〇〇さんが勇気を出して決断したからこそ、ここまでしることが出来たんですよ!!」
「何もせずに終わっていたのでは、また、違った結果になっていた」と。
私も、先生方と同じことを思っていた。
何もせずに、被害にあったショックと悔しさを抱えたまま今までのように過ごしていたら、きっと、あの時、こうしておけば良かったと、後悔していただろうと。
先生方にそう言ってもらえて、背中を押された気がして嬉しかった。
それと同時に、私のやった事は間違っていなかったのだと、ようやく思うことが出来た。
その後も度々、私は支援センターのスタッフに会いに行った。
自分では、さほど自覚していなかったが、事件が一段落したせいか、顔つき、表情が今までと違うと言ってくれた。
どこかしら、スッキリしていると。
何か吹っ切れたものがあったのだろう。
今、2020年(令和2 年) 7 月、これを書いている途中で気がついたが、事件が終わって、5 年が経とうとしている。
まだ5 年なのか、もう5 年なのかは分からない。
事件が終息してからも、何度か理不尽な目にあった。
パワハラやセクハラと言った事は日常茶飯事。
気に入らないと言う理由だけで繰り返される罵詈雑言の日々。
挙げ句の果てには、好きで関わっていたスポーツでさえ、男の方が立場が上で価値があるのが当たり前、女は所詮、性の捌け口にしかならないと、何の価値もなければ道具にしか過ぎないと―――。
事故であろうがセクハラだろうが性犯罪だろうが被害にあう方が悪い、女が犠牲になるのが当たり前だと、人前で罵声を浴びせられたこともあった。
正直、叩きのめしてやりたい気持ちでいっぱいだったが、言い返すだけ時間の無駄にしかならないのはわかっていたし、関わらないのが一番だと思っていたから、一先ず流しておいた。
流石に直接手を下す訳にはいかないので、とりあえず呪いだけはしっかりかけておいた。
私が幸せにしかならない呪いを。
(怒られるな)
大好きなスポーツですら、差別扱いをされるのかと思い悩み、あきらめようと思っていた矢先、この先の人生を大きく変えることになる、一人の人と出会いがあったのだ。
その人との出会いがキッカケとなり、私の日常は、少しずつ変わり始めた(話が変わってくるので詳しくは別の機会に)。
流行りの引き寄せ、断捨離、依存、執着、マイナス思考の手放し方、目標、夢、自己肯定感、お金に関すること、瞑想、運動、健康。
前へ進む為に、たった1 ミリでもいいから前へ進んで自分の人生を変える為に、片っ端から本を読み漁り、ネットで調べまくった。
自分がどうしたかったのか、どうしてほしかったのか、何がしたかったのか、答えを求めて、少しでも気になったことや、興味を持ったことは、納得するまで調べ尽くした(飛ばし過ぎて、流石にちょっと疲れた)。
行動を起こすも、触りだけで自己満足してしまい、何もしないことも多かった。
今思えば、情報を仕入れ過ぎて、先に書いた通り、やった気になっていたのだろう。
出来なかった時のことを考えてしまい、正しいやり方も、何も理解していなかったのだ。
そんな中でも、小さいけど、やりたいと思ったこと、できると思ったことを、少しずつ続けていった。
そんな中で、ようやく、自分の中にあった本当の想いに気づくことが出来たのだ。
私が本当に欲しかったのは「愛」と「安心」と「自信」の3 つだったことに。
そして新たに気づいたことを今から伝えます―――。
みんな、誰しもが踠いてる。
踠いて踠いて苦しんでいる。
本当は復讐がしたい訳じゃない。
勿論、自分や大切な人を傷つけた人間は許せないし、憎いけれど、仕返しをしたところでどうにもならないのはわかってる。
ただ、傷つけられた、被害にあった、苦しめられたと言う事実があったと言うこと、自分がそうなってしまったことが許せないのだと。
今も、苦しみから解放されず、ツライ思いをしている人がいることを、ただ、ただ、わかってほしいだけなんだ―――。
一度しかない自分の人生を生きる中で、最も大切な「時間」を奪われてしまったことが、一人の人間としての自尊心を傷つけられたことが許せなかったのだ―――。
物への執着、他人への依存、捨てれない物や想い出も、全ては自分の欲求を満たす為だけの方法、手段だったのだ。
誰かに傷つけられた人は、悲しみの癒し方を教えてほしいだけ、さみしい人は心の拠り所が欲しいだけ、行き場のない気持ちを、感情の流し方を教えてほしいだけなのだと―――。
みんな、笑って幸せに暮らしたいだけなのだから、今までのように。
私は今、ようやく全てを受け入れ、自分を許すことが出来ました。
今、これを読んでいる人に同じことをしてほしいと、お願いしようとは思っていません。
傷つけられたことを忘れろとも、事実を忘れろとも言いません。
もし、あなたの身に何かあったのだとしたら、自分で自分を傷つけてしまう前に、最悪な(良くない方)結果を選んでしまう前に、話をしてみませんか?
聞いてくれる人なんていない、理解してくれる人なんていないと言うならば、嘆き悲しむ前に、自暴自棄になってしまう前に、私と話をしてみませんか?
まずは、私と一緒に考えてみませんか?
肩の力を抜いて深呼吸をしましょう。
ありのままの自分を受け入れ、ありのままの自分を愛するために―――。
(最後に)もう一度聞きます。
あなたが今、一番伝えたいことはなんですか?(どんなことですか?)
全ての人の心にあたたかい灯が灯ることを願って―――。
おわり