性被害者の現状と社会に求めるもの~一人娘を失って~
公益社団法人かがわ被害者支援センター
M・M
「犯罪被害者の声 第14集より」
「〇〇署のものです。娘さんが今、倒れて救急搬送されています。確認のため住所、名前を申し上げます。…詳しい状況はこちらに来てからお話しします。どのぐらいで来られますか。」
早朝の一本の電話。主人は既に出勤していた。何が起こったのか、全く理解できず、着の身着のままの状態で一人県外に向かった。途中、新幹線の中で、もう一度連絡が入り、娘が亡くなったと知らされた。
ようやく3 時間半後、警察署に着くと、「今、娘さんは検死をしていて、署に戻るのは、もう少しかかります。その間に状況を説明しますので、こちらへ。」私は、小さな取調室に通され、刑事が淡々と説明をしていく。しかし、頭がぐらぐらとまわり、刑事の口がパクパク動いているが、声が聞き取れない。「以上です。1 階でお待ち下さい。」の言葉にハッとして我に返った。いつ2 階に上がったのだろうか。その後2 、3 段、階段を滑りおち、刑事が支えてくれた。
主人が到着し、娘は冷たい状態で署に戻った。「ご遺体は署の裏で、他の方に会わないようにお渡しします。こちらが娘さんの着ていた服です。今はまだ暑いので、腐ってはいけないので冷蔵しています。検死料を支払ってお帰り下さい。」
なぜ、まだ温かかった娘に会わせてくれないのか、検死を頼んでもいないのに切り刻まれるのか。底にたまる程の大量に血がついた大きなビニール袋を持って署を後にした。
「性被害の全容」
娘は卒論の為、母校を訪れた。約250名の生徒に質問方式の回答をもらうというものである。それを取り持ってくれたのが、加害者である元高校教諭である。少し離れた場所に小さな実験室があり、その一室を自由にその教諭が使えていた場所で被害にあった。私が知ったのは、娘が大学を卒業し、進学が決定した直後の3 月下旬である。2 年を超えたその出来事をようやく告白した頃は、不眠が続いていた。しかし、私は受験が大変なのだと短絡的に考えていた。
その後、加害者に直接会い、話をしたが全く認めることはなかった。むしろ恋愛で、好きだったと言う言葉を何度も口にした。そして、家族には言えないので、農家でもある加害者は、米で支払いたいと言ったのである。
私たち自身は最初大事にはしたくないと考えていたが、警察に訴え、教育委員会にも相談した。
しかし、彼女は人に知られるのが一番怖がっていた。取り調べは、女性刑事にお願いしていたにも関わらず、男性刑事が担当となった。何度もどの角度で何度触られたのかを再現され、それは一日8 時間、一週間にも及んだ。まさしく二次被害である。もちろん刑事を責めているのではない。仕事としてきちんと調べなくてはならないとはいえ、こちらがお願いした女性刑事を担当にしてもらうとか、休憩を入れて、「こういうことを聞いていくけど、気分が悪くなったら言って下さいね。」といった対応をお願いしたい。淡々と話せているのは、自分のことと理解できず、泣いたりわめいたりする状態より、より重傷の場合があるからだ。
その年の5 月下旬頃から、どんどん症状が悪化していった。一人で寝ていると「カーテンが揺れて、誰かに見られているような気がする。訴えたことによって仕返しに来るのでは。住所を知られているから引っ越ししたい。また襲われないだろうか。」さまざまな不安を口にするようになった。
大学院の講義中に、窓ガラスに加害者の顔が映ったと言って、大声で叫び、教室を出て行った。その結果、休学処分となり、病院の診断結果はPTSDであった。医師の説明では、「信頼していた身近な人から受けた性犯罪により、元来一つでなければならない心がバラバラになってます。…今後、自分を痛めつける行為もありえます。かなり不眠も訴えており、治療が必要です。こちらで入院することもできますが、親御さんの面会を考えた場合、地元の病院も考えてはどうでしょう。」私が事件を知って3 か月しか経っていないのに、なぜこんなことになるのかわからなかった。入院施設の施錠された二重の鉄扉を見て、涙が床にこぼれた。
そして、地元で片っ端から病院を探した。娘は誰にもこれ以上話したくないし、せめて女医がいいと希望した。しかし、「女医で入院施設のある病院」は、なかなか見つからなかった。やっと見つけて、3時間程病状を説明した後、「今は満床ですし、空いた時に、もう一度本人さんに来てもらって下さい。」もう女医にこだわっている場合ではない。他の病院にあたると「うちは統合失調症の患者がほとんどなんです。急に大声をあげたり、物をぶつけたり。個室は用意できないので、そんな中で若い娘さんが耐えられますか。」どうしたらいいと言っているの理解できなかった。
娘はどんどん食欲はなくなり、やつれていく。少し食べては嘔吐を繰り返した。不眠はどんどんエスカレートし、ようやく眠れた娘に布団を掛けると、すぐさま目をさました。「きゃー。私に触れないで。」毎夜、襲われる悪夢にうなされていた。睡眠薬と安定剤と、ようやく見つけたカウンセラーでの治療のみとなった。
そして、私が最後に娘に会ったのは、教育委員会に電話する姿だった。「私がこんなにも苦しいのに、なぜ高校教諭を辞めさせないんだ。」
娘が亡くなり、私自身は娘同様、何もできなくなっていった。人に会いたくない。外に出ると、誰かが自分を襲うのでは、という恐怖にかられた。TV番組で人が亡くなると報道されると、それだけで目眩がして起き上がれない。笑うシーンを見ると自分が笑われているような気持ちになった。
それ以上に、苦しんだのは、加害者に対しての殺意だ。来る日も、来る日も襲ってくる。そして娘を守ってやれなかった自分自身も許せなかった。料理をしようとしても、包丁を見る度、震えてできない。主人にも迷惑がかからなくてすむように離婚届を用意した。生きているのか死んでいるのか、よく分からない状態が続いた。これら娘と私に起こった症状は、PTSDの症状である「再体験」「回避」「認知と気分の陰性の変化」「覚醒の持続的亢進」そのものであった。
それからようやく心療内科の門をくぐったのは、娘が亡くなって1年半過ぎた頃である。4 年以上、カウンセリングと治療を受けた。
また、その頃に出会ったのが、かがわ被害者支援センターの方々である。何度も何度もセンターで泣きじゃくった私にやさしく接してくださった。その後、5 人の弁護士の先生方が私達家族のために加害者および県と戦ってくれた。真摯な態度で接して下さった先生方や毎回裁判所まで付き添って下さったセンターの方がいたことが大きな支えとなった。そして、もう一度、人を信頼できる大きなきっかけとなった。6 年の歳月を経て、加害者が定年まであと半年というところでようやく勝利を勝ち取ったのである。
残念なことに、一度も加害者からの謝罪の言葉は聞くことなく、ふしだらな男性経験豊富な娘にされたことこそ、性犯罪の罪の大きさである。人に話すのをためらい、何年も苦しんでいる性被害者がいるにも関わらず、加害者は逃げなかった、嫌だと言わなかった、恋愛だったというのが現状である。それは上下関係にある教諭がこんなことをするなど予想もできず、事件に暴露している時間の長さや加害者と密着し距離が近いために被害者の身体全体に記憶が刻印されるのだ。性被害が魂の殺人と言われる状況を社会全体に浸透できればと切に願う。性被害に遭わなければ、娘の人生や夢を、そして私達の未来も奪われなかったのだから。
「娘へ」
いつも明るいあなたがいなくなって、もうすぐ12年。いつも傍にいてくれているような感覚が今もあって、それでも会えなくて。やはり辛くさみしい。「子どもは幸せになるために生まれてきたんだよ。だから、いじめられている子や病気の子どもたちの支えになりたい。そんな相談室が作れたらなぁ。いつか、お母さんにも楽させてあげたい。」そう言ってくれたあなたが、今も私達の誇りです。言葉では言い表せない感謝を込めて。“本当にありがとう。”