あれから20年…
公益社団法人被害者支援センターとちぎ
K・W M・W
「犯罪被害者の声 第14集より」
「行ってきま〜す。」私たち家族が最後に聞いた娘の声でした。あれから今年で20年が経ちます。
「ただいま〜」の声はもう二度と聞くことができませんし、娘に会うことも出来ません。すべてがこの世から消え去られてしまいました。
この現実は、何年たっても辛く悲しい出来事として心に深く傷付きその傷は、今後も消えることなく一生背負っていくことになるのだと思います。
犯罪被害者等のことをご理解いただいていない方は、簡単に「もう20年も経ったのだから、早く忘れなさいよ」という方がいますが、やっと生まれてきてくれた、たった一つしかない命を悪質な飲酒・居眠り運転をした職業ドライバーによって奪われたのですから忘れられる訳がないのです。
娘の部屋は20年前のままで片付けられていませんし、娘が着ていた洋服や使っていた品々も捨てることが出来ないでいます。飲酒ひき逃げで息子さんをなくされた先輩の被害者の方がおっしゃっていました。「私も息子の遺品を片づけられずにいたけれど一大決心をして片付けることにしました。自分の要らなくなった洋服に包んで処分することで息子を守ってあげている思いになって決心がついたのよ」と言っていたことを思い出します。
これからも私達は「犯罪被害者を辞めることができない」と思います。でも被害者支援センターとちぎ開催の「あかしの会自助グループ」に参加し、毎月1 回、同じ思いをしてしまった犯罪被害者等との交流・情報交換・心情の吐き出しができるので、少し心の癒しや被害回復になっています。
15年前に書いた手記を掲載します。私達の思いは何年たっても変わりません。
平成12年(2000年) 7 月31日、真夏の非常に暑い日でした。午後7時頃、病院での老人介護の仕事を終え、家族の待つ自宅に帰る途中、国道4 号線で、泥酔した飲酒・居眠り運転の大型トラックに正面衝突され命を奪われました。人生の希望に燃えていた、わずか19歳と8 カ月でした。
朝、元気に出て行った娘が、病院のベッドの上に傷だらけで横たわり、冷たくなっていくら呼んでも返事をしてくれません。未だにその姿が瞼に焼き付き忘れることはできないのです。この時から、他人事と思っていた「犯罪被害者」になり、一生、被害者をやめることができなくなりました。やめることができたらどんなに幸せでしょうか。
加害者は、仕事中に立ち寄ったドライブインで、別のトラックで来ていた同僚と、ビール大瓶を4 本ずつ飲み干し、5 分ほど仮眠しただけで、150kmも離れた県にある運送会社に戻るために運転をはじめました。
18キロ以上も公道を蛇行運転で走り続け、同僚が「危ないから止まれ、止まれ」と携帯電話で警告しましたが、「大丈夫、大丈夫」と意に介さず走り続けました。そのうち仮眠状態に陥り、ガードレールに車体をぶつけて目が覚め、あわててハンドルを右に切ったため対向車線を走ってきた娘と車をめちゃくちゃにつぶし民家に突っ込んでようやく止まりました。大型トラックを鉄の固まりの凶器に換え公道を走る行為は無差別殺人同等だと思います。「業務上過失致死、道路交通法違反、酒酔い運転」の罪で起訴されましたが、求刑は、たった「3 年6 カ月」、判決も「3 年6 カ月」でした。その当時の法律は「命の重み」を反映していませんでした。
老人介護の仕事を熱心にこなし、彼との将来の「夢」に向かって生きていました。私達も将来を楽しみにしていました。そんな「夢」を奪った悪質きわまりない行為は、決して許すことはできません。「こんな辛い思い、誰にもさせたくはない」です。
娘の事故から1 年目の命日の日、事故にあった同じ時間に事故現場にたってみました。国道4 号線を、多くの車が爆音を立てて通り過ぎていきます。「ここにあの悪質な飲酒運転のトラックが突っ込んできたらどうなるだろうか」と考えました。「たくさんの犠牲者が出てしまう、これは決して他人事ではない。私たちと同じ思いをする被害者を出さないためにも、飲酒運転根絶を訴えることが、娘からのメッセージではないか」。このメッセージをずっと伝え続けることが供養だと思い活動を始めました。
最近は「あおり運転」という悪質なドライバーがおり、犯罪被害者等が生まれてしまっていることに心を痛めています。少しでも犯罪被害者の「心の声」が国に届き安全安心な社会になりますよう祈ります。