「ずっと ずっと 娘と共に」
公益社団法人あおもり被害者支援センター
自助グループ「犯罪・交通事故被害者遺族のつどい」
T ・S
「犯罪被害者の声 第13集より」
犯罪被害者という言葉を耳にした事もなかった今から18年前、私の娘は、中学校の部活動の帰り道、飲酒運転、スピード違反の車にはねられ、6か月間意識不明の状態の後この世を去りました。
娘が入院していた6か月間、どの様に過ごしていたのか今、思い出してみてもとても現実とは思えない恐ろしい日々でした。
最初1か月程は家族全員(主人、当時5才と4才の息子、私)で、病院のICU控室で24時間過ごしました。
そこで寝泊りさせてもらいました。いつどうなるかわからない状態の娘のそばを離れる事などできませんでした。
娘は口に呼吸器を入れられ、手も足にも何本もの点滴でつながれ、モニターをつけられ、頭と足は骨折し腫れあがっていましたが必死に命と戦っていました。
私は食べる事も眠る事もできず、ただ恐ろしくて怖くてどうしたら良いのか何も考える事もできなくなりました。
「私の命ととり変えて下さい。娘とかわりたいです!」
と何度も先生にしがみつき、できるはずのない事をくり返しお願いし先生を困らせました。お見舞いに来てくださる方々にも「早容を助けて下さい!」とみなさんを困らせました。必死でした。
1か月程して幼い下の息子ふたりを病院に縛り付けているのも限界で、息子達を再び幼稚園に通わせようと家に戻り、朝主人は仕事、息子達は幼稚園、私は娘の病院へと、ただ回復だけを願い過ごした日々・・・途中何度も崩れかけ、それでも絶対目覚める事を100%信じていました。そう思っていなければもう立ってもいれない状態でした。
幼稚園の帰りのバスが着く時間までには、家に戻らなくてはいけないので病院にいられる時間は限られています。
ICUは面会時間が決まっているので、ずっと娘のそばにいる事はできませんが、一秒でも長く、少しでも近くにいたくて、なりふり構わず通い続けた6か月間でした。
娘は我が家の太陽でした。
7才と8才下の弟達を「うちの怪獣達でーす」とお友達に紹介し、よく遊んで面倒もみてくれました。
弟達も姉の事が大好きで、娘が学校から帰ってくるのを毎日待ちわび、帰ってくると大喜びで姉の部屋に居座り、いたずらしては逃げ回り、そんな賑やかな楽しい日々がありました。
いつ、どんな事でもポジティブで部活動、勉強、手伝いも全て笑顔で頑張る姿に私はとても心強くそして子供達を見ていると幸せでした。
そんな娘ですから何でも精一杯努力する娘ですから必ず目を覚ましてくれると信じていました。
しかし、6か月後娘は意識をとり戻す事もなく天国へと旅立ちました。
娘が亡くなる1年半前に私は母を亡くしていました。
その時、こんなつらい別れがあるのかと悲しみ、苦しんだ事をはるかに超える残酷な別れがある事を知りました。
もうどこへ行っても娘の姿はなく、身体を拭いてあげる事もふれる事も出来ない・・・私は気が狂ったかの様に悲しみ、娘がひとりではかわいそう、と一緒に行ってあげなければと思っていました。
でも目の前にはまだ幼い2人の息子がいます。
私が泣いていると小さな手で一生懸命背中をさすってくれる小さな息子達がいます・・・
とにかく食べなければ、とにかく眠らなければ、という気持ちで心も身体もこわれてしまった自分にあう病院を電話帳で調べ、電話をし、症状を聞いてもらい、予約してタクシーで病院へと歩き回りました。
なかなかあう先生にも薬にも巡りあえず、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりとつらかった事が頭の中をかけめぐります。
回りに頼れる人もなく、相談できる場所もなく、私の家の事なので何でも自分でしなくては、と家事、幼い息子の事、自分の通院など泣きながら、もがきながら気づくと18年の月日が流れていました。
その間、身体も心も弱い私は、うつ病をはじめいろいろな病気になり、手術なども受け、今なお心療内科はじめ数か所の病院へ通い続けています。
あの時、あおもり被害者支援センターはなく、県内に被害者の相談窓口などどこにもなく、私の回りには子供を亡くした方はいませんでした。
誰にも話せず心を閉ざしました。
それから数か月たった頃だったでしょうか?
新聞でTさんの記事を目にしました。
私と同じ子供を交通事故で亡くした方がいる。
深い悲しみの中で“つかの間の天使”という本を出版したという記事でした。
この方なら、この悲しみを分かってくれるはず。
この苦しみをわかり合えるはず・・・
と思い電話をさせていただきました。
Tさんはその時すでに東京の被害者遺族の方と連絡を取り合い、東京の遺族の会にも参加していて私に沢山の情報をくれました。
そのおかげで刑事裁判では、飲酒運転、スピード違反に加え一時その場から逃げようとした加害者と、雨の中友人の後を追い赤信号で渡ってしまった娘との過失割合は6対4で娘の方の過失が大きいと言われ、納得などできなかった私達は民事裁判をおこしました。
加害者には最初から弁護士がつくのに、被害者は弁護士を探す事から始まり、誰も知らない中、主人と探して歩きました。
裁判の為の陳述書は泣きながら、思い出しながら、何日もかけ作成しました。
身体も頭もついて行かず、私は何度も体調を崩し、でも娘の事を思うとどうしてもやらなければ納得できませんでした。
刑事裁判の結果のままでは終われないのです。
結果、過失割合は5対5となりました。
飲酒運転とスピード違反、けがのない加害者と、赤信号で渡った娘は死亡。
飲酒運転でなければ娘は命まで奪われなかったはずだと、今でも思っています。
命の重みなどわかってくれなかったこの日本の判決に、今でも納得はしていませんが、娘の為に裁判で戦い5対5までなった事は、娘に届けられたかなと思っています。
Tさんに支えられ、教えてもらいできた裁判、そして青森県内で理不尽に命を奪われた子供達の命のパネル作成、青森県に犯罪被害者支援センターの設立を願い、知事さんや県議員さんにお願いに歩いた日々・・・何もかも、何もなかった青森県でTさんにひっぱられ必死でやってきた足跡(そくせき)です。
今、このあおもり被害者支援センターが娘の居場所です。自分の子供の居る場所があるという事は、親にとり何より幸せで安心できます。
この場所で皆さまに暖かく見守られ、沢山の方にメッセージを届ける機会を与えていただき、子供達もそれに答えたくて、目には見えない笑顔で耳には聞こえない大きな声で精一杯頑張っていると思います。
そして遺族である私達も“つどい”という場所を与えていただき、なかなか参加する事ができない状態ではありますが、とても大切な場所です。
娘との別れから18年という月日が流れ、まわりの友人に娘の話しをする事もなくなりました。友人もまた、私を悲しませまいと娘の名前を出す事もなくなりました。
ですが、“つどい”では、いつでも娘の名前を出して話し、耳を傾けていただき寄り添っていただいています。パネル展が開催されたあとつどいに行くと「今回も頑張ってくれましたよ!」と言っていただくと、娘が私のそばにいた頃の☆ママ☆の部分を思い出します。
娘の母親でいられる時間は泣きたくもなりますが、それ以上に嬉しい気持ちになります。
☆つどい☆のはじめにいつもその日の司会の方が☆つどいのルール☆を読み上げてくれます。その中に「つどいは孤立感を解消させる中から自分なりの新しい生き方を見つけ精神的に回復していく事を目的とします」という所があります。
確かに私は娘の母親としての失ってしまっていた部分と孤立感をつどいの場所で解消させていただき、少しですが回復してきている、まっ暗な世界から灰色へ、そしてうすいパステルカラーへと、色のある生活を感じています。
亡くなった子供達に第2の命を与えていただき、決して忘れる事のない子供・母親・父親・夫・妻・兄弟でいられる大切な場所です。
本当にいつもありがとうございます。
最後にひとつお願いがあります。
当時を思い出してみた時、深い悲しみ、苦しみの中にいると思考が停止してしまい何も考える事ができなくなります。
ただ肩を震わせ泣き続け、全てが苦しいのです。
そんな時、支援して下さる方に
・今一番 困っている事は何ですか?
・今一番 苦しい事は何ですか?
と投げかけていただくと助かったのではないかと思います。
自分の気持もわからず何をどの様にしたらよいのか考える事もできない状態は、ただただ不安でまっ暗です。
今、自分に何が一番必要か何に困っているのかを気づく事ができれば、そしてその事について支援して下さる方々からアドバイスなどいただければ、ずい分救われたと思います。
被害者の頭の中はパニックです。
自分の気持ち、物事の優先順位、判断、何もできない長い日々を過ごしています。
日にちの経過と共に、今、困っている事、苦しい事も色々変わっています。
その時々で一番苦しい事に気づかせていただくとすぐに解決できなくてもその方向に進めるはずです。
時間はかかりますが、ひとつひとつ心と身体を整理していく為にみなさまの暖かい心と暖かい言葉、そして多方面にわたる支援を必要としている人が沢山います。
どうか 助けて下さい
私もまた、つどいや命のパネル展の場所を通してみな様に支えられ沢山助けていただきながら、娘と一緒に少しずつ前に進んで行けたらと思います。
よろしくお願いいたします。