千鶴 〜犯罪被害者になる〜
公益社団法人京都犯罪被害者支援センター
M・K
「犯罪被害者の声第12集より」
逆縁という言葉があると知りました。娘の事件があるまでは幸いにして使うこともありませんでした。子供を先に喪うということは何にも増して辛いことです。幾つになっても子供は親の大切な宝であり、元気な姿を見せてくれることは何よりも親孝行なことでした。
1974年 8 月、千鶴は私たち夫婦の長女として生まれました。当時私たちは岡山の後楽園近くに住んでおり、名付けのために旭川に架かる鶴見橋から『鶴』の一文字を採りました。そして「鶴のように千年も幸せに長生きして欲しい」という願いを込めて、千鶴(ちづ)と名付けました。
高校までを徳島で過ごし、薬学を学ぶため京都の大学に進みました。
その後同じ会社の男性と結婚して大津に住み、夫婦とも薬剤師で京都の調剤薬局に勤めていました。長男は私たちの近所に住み、次女は姉の事件の一ヶ月前の2011年 2 月に結婚し、夫君の転勤で岡山に生活の場を移していました。
東日本大震災の翌日2011年 3 月12日、勤め先の調剤薬局で一日の勤務を終わろうと報告をパソコン入力中に同僚の薬剤師の男性に背後から数十箇所も刺されてしまいました。絶命するまでの恐怖と痛みはどれ程だったか想像もできません。最愛の夫や家族との突然の別れがどれ程辛く悲しかったかは知る術もありません。その惨状は現場調書や犯人の供述調書によってしか知り得ないのです。
「恨みはない。誰でもよかった。」という自供ではとうてい納得できません。
日付が 3 月13日に変わる頃になって、大津の夫君から電話がありました。「千鶴さんがまだ帰ってこないし、携帯にもでないんですよ。」夫婦別々の車で通勤しているので、「千鶴さんの通勤ルートを探してみます。」と連絡が入りました。そして閉店後少し開けているはずの入口のブラインドが閉まっていて、駐車場に二月に買ったばかりの千鶴の車を確認しました。何か変だと感じ、午前 2 時半頃上司に連絡を取り、警備会社の人間と共に店内に入り、床に倒れている千鶴を発見しました。13日の午前中には両方の家族は取るものも取り敢えず警察署に集まりましたが、未だ捜査の最中で千鶴についての詳しい様子はなかなか聞くことができませんでした。
一年後の2012年、一周忌を済ませて京都に赴き、公判が始まりました。判決前夜まで毎晩京都地検で検事と話し合いを持ちましたが、当日の検事の求刑は「無期懲役」でした。被害者参加人の心情の意見陳述、弁論としての意見陳述では全て「極刑=死刑」を求めました。検事が「死刑」を求刑することは、非常に難しいことだったのでしょうか。しかし家族は敢えて「極刑」を求刑しました。裁判員裁判の中で、ひょっとしたらという万に一つの可能性に掛けたのです。裁判員と被害者参加人というそれまでは裁判に対して部外者であった素人を法廷に呼び込んだのですから、奇跡が起こる可能性に掛けてみました。
人の命に軽重はない、等しく平等である。何物にも代えがたいものである。そしてその数の大小は何の関係もない。被害者に何の落ち度もなく、唯々加害者の手前勝手な屁理屈による最低の行為である。然らばせめて極刑をもって被害者の冥福を祈り名誉を守ることが残された者の願いであり、人間社会のモラルではないか。
3 月16日夕方、判決の言い渡しがありました。判決は無期懲役、でも情状を認めた有期刑にはなりませんでした。せめてもの救いでした。
事件直後から身体の不調を訴える家族が出てきました。夫君は仕事に手がつかなくなり、朝夕が逆転したりしました。家族ぐるみでカウンセリングを受け、心療内科に通い、帯状疱疹治療のため皮膚科にかかりました。
検事の供述調書作成は妻にとってどんなに辛かったことか。側にいた私も涙ぐんでしまうことがありました。裁判までの一年間、息子の「ジッとしていては姉ちゃんの供養にならない。納得のいく判決を聞くようにしないと悔いが残る。被害者参加をしよう。」という言葉に動かされ、彼が段取りを組んでくれた京都犯罪被害者支援センターを訪れました。そして当時事務局長の宮井さんの穏やかな口調での応対に、妻ともども沈みきった心をどれ程救われたか知れません。その後も伺うたびに被害者参加弁護士などの適切なアドバイスをいただき、裁判に向けての心構えができてゆきました。そして屈強な男でも保ちあぐねるような苦しみを受け止めていただきました。その上公判中は裁判所内の一室を私たちのための控え室に確保し、昼食や湯茶のサービスを提供してくれました。そんな京都犯罪被害者支援センターの皆様には感謝の言葉もありません。
その他にも両方の家族のために地元支援センターによるカウンセリングを実施していただきました。ひとりで抱え込まずに心の内を話せることは、受けるものにとって非常に助かったと思います。
薬を集めて震災被害者を救うボランティアに一緒に行こうと夫婦で話をしていたとあとから聞きました。仕事を通じての人助けを考えるような優しい心を持った娘でした。小さいときから歌うことが好きで、社会人になるまで合唱を続けていました。国内公演やアメリカの姉妹都市サギノーでの親善公演、大学では指揮者と、楽しんでこなしていました。影響をうけたのでしょう、下の娘も同じように歌うことを楽しんでいます。
千鶴が人生の半分を過ごし、大学進学のために離れたままの部屋を今も残しています。そして彼女が使っていたものを集めてあります。ライティングビューローの上には彼女の好きだったものと一緒に分骨を安置しています。朝夕にはお鈴を鳴らし冥福を祈っています。折に触れ、あとに残された夫君が泊まりに来てくれます。彼女と一緒にいる気持ちになるのだそうです。あと20日で四月になって本社に異動する予定だったそうで、本当であれば妹夫婦と同じように家族も何人か増えて賑やかで充実した人生を歩んでいたのでしょう。
公判で黙秘を続け反省の弁や謝罪をしなかった犯人は刑務所の中で反省をしているのでしょうか。半年に一度「処遇状況等通知書」という書類が京都地検から送られてきます。その中には彼の細かい心の様子や反省の態度は書かれていません。法的処罰を受けていることが判るだけで、被害者や遺族への謝罪は知る術もないのです。殺人は無期懲役という代償を払うほどの価値ある行動だったのでしょうか。成人しているとはいえ自分にも両親はじめ家族のある身であれば、そのことが頭に浮かび殺人などしないと思うのですが。取り返しのつかない過ちは自身の家族を含め、三つの家族から笑いを取り去ってしまったのです。
私たち二家族のあの幸せは二度と還ってきません。千鶴たちふたりが二つの家族を結ぶカスガイだったのに、その一本が欠けてしまったのです。事件以来、裁判が終わっても心から笑えることがなくなりました。千鶴のことがフッと頭をよぎってしまうのです。でも今は裁判に参加出来たことを、悔いなく闘えたことを、誇りにしています。
七年という時が経つにつれ、家族の中にも結婚したり子供ができたりと、徐々に明るさが戻ってきました。これからも楽しいことやうれしいことに色々と巡り会って、娘を喪った辛さを少しでも和らげていけたらと願います。
千鶴の事件は、私の人生のなかで一番辛いことです。それまでの人生とは全く異質の、どう考えても本当のことと思えない出来事です。今となっては、千鶴の姿は写真でしか見ることができません。その写真の中で、赤ん坊の時とウェディングドレス姿の写真が一番彼女らしいかなと思います。生まれたばかりで、この世に何の不安もなく皆の愛情を一身に受け、機嫌良く笑うことで皆に幸せを返していた頃。彼氏と結婚し、永い人生を二人で歩むことに何の疑いも持たなかった時。
千鶴は36歳の若さで一生を終えてしまいました。短かったけれど、フルスロットルで人生を駆け抜けて逝ったと思ってやりたい。「犯罪被害者になる」ということを除いて。
年に数回、犯罪被害者支援の会で自分の体験を話す機会があります。
初めの頃は娘を喪った悲しみや苦しみを話すことで精一杯でした。でもそれだけではひとつの体験談をいうだけで終わってしまう、どうすれば犯罪被害者を支援できるのかということが大事なのではと考えています。「安心・安全なまちづくり条例」や「犯罪被害者支援条例」といった条例を制定している都道府県が全国で 6 割程度、市町村ではもっと少ないことを思うと、画一的になってしまうにせよ『まだ犯罪被害者になっていない人』に対して条例の制定を理解してもらう必要があります。
最近、徳島被害者支援センターの活動に加わりました。ここ20年程の間に起こった阪神淡路大震災や東日本大震災などを契機に、自然災害に対する備えや支援は充実してきています。それに対して犯罪被害者支援についてはまだまだと感じるからです。そのために徳島にも条例を制定し実のある支援をしなくてはと思うからです。犯人に対して恨み辛みを持ち続けるよりも、受けた支援を支援として犯罪被害者に返すことができるようにしたいものです。
人生の黄昏を一日一日過ごしていくという平凡なことはできなくなりました。亡くした娘を思い続けていくのも親の勤めだろうと思っています。