いまだ変わらぬ思い
公益社団法人とやま被害者支援センター
J・M
「犯罪被害者の声第9集より」
平成20年7月22日夜、事故は起きました。息子(長男)は翌日水死体で発見され、『用水に少年の水死体』と新聞に報じられました。それだけ読むと息子が勝手に事故を起こして用水に落ちて亡くなったと思わせるものでした。
あの日の夕方、息子と私は「ちょっと行って来る」「気を付けて帰って来られ」「わかった」と、本当にいつもの出かける時の会話を交わしました。でも、これが息子と交わした最後の言葉になりました。事故から早、八回忌目を迎えました。
出勤して間もない朝10時、警察から電話がかかり、息子の携帯番号、洋服や履物の色などを聞かれました。「何で、どうしてウチの子なの?」と思うと同時に、私は泣き叫んでいました。夫とどうやって警察署まで行ったのか覚えていないほど、頭の中が混乱していました。
息子を実際に見るまでは、絶対に息子ではないと信じていました。でも、警察署で白いビニール袋に包まれ冷たく横たわっていたのは、まぎれもなく私の息子でした。夢だ。夢であってほしい、そんな思いでいっぱいでした。
息子は亡くなったとき15歳でした。たった15年の命でした。
事故からしばらくの事は今でもあまりよく覚えていません。ただ、何が何だかわからない中、通夜・葬儀には親の私たちが驚いたくらいたくさんの友達や先輩たちが来てくれました。たった15年の間にこんなにたくさんの友達を作っていたなんて…。葬儀の後、火葬場でお骨を拾っていた時、当時まだ5歳だった弟が「これ、お兄ちゃん」「これ、くっつけたらお兄ちゃんになるんだよ」と、幼いながらに言っていました。人の死と言うものがまだわからない幼い子に、もしかしたらとても残酷なものを見せてしまったと思います。
事故があって以来、長男の事で頭がいっぱいになっていた私は長女や次男の事を忘れてしまっていたのだと思います。8歳年下で保育園に通っていた次男は「ママ、ママ」と私にべったりくっついて離れようとしなくなりました。19歳の長女も私を元気づけようと色々話しかけてくれるのですが、何も頭に入ってきませんでした。家の中が暗く、家族がバラバラな寒々とした雰囲気が何か月も続いたある日、次男が突然「僕、一人でさみしい」と大泣きしました。その時になって初めて私は「悲しんでいるのは私だけではない」とやっと気が付いたのです。家族みんなそれぞれに悲しい、辛い思いをしていたのです。
実は、事故直後に警察から「同乗者がいたようです。どちらが運転していたのかは今後の捜査を待たなければわかりません…」と言うような話を聞きました。でも、その時の私たちは息子の死と言うあまりに辛い現実に直面して、何も考えられませんでした。通夜・葬儀の際にも息子の友達から、誰かの運転するバイクに乗っていたらしいことを聞かされていましたが、私たちが行動を起こすにはまだ少し時間が必要でした。それくらい混乱していたのです。
事故から4か月あまりしてやっと私たちは息子の事故について疑問を持ち始めました。そして、警察や被害者支援センターを訪ねたのです。何がどうなっているのか、真実は何なのか、わからないことだらけでした。
事故が発覚して裁判が行われるまで約2年かかりました。相手が否認していたからです。加害者は息子を乗せてオートバイを運転中に事故を起こし、そのせいで後ろに乗っていた息子が川に落ちたにもかかわらず、そのまま息子を助けようともせずに放置して逃げたことから、息子は流されて水死しました。
長い捜査の結果、平成22年5月、第一回の裁判が始まりました。私たちはまだできて間もない『被害者参加制度』を使って、裁判に参加しました。14回に亘る審理の末に平成23年3月、一審の判決は懲役2年6月・保護観察付執行猶予3年でした。加害者はこの判決を不服としてすぐに名古屋高等裁判所金沢支部に控訴しました。でもそれは平成24年1月、棄却されました。それでも懲りずに今度は最高裁判所に上告をしたのです。でも当然ですが、これも平成24年6月棄却され、刑が確定した時には事故から既に4年が経っていました。
何だかんだとごねまくっていましたが、執行猶予付きです。事故以来、加害者もその親も見殺しにした息子や遺族である私たちに未だ何の挨拶もありません。もちろん、謝罪の手紙をよこすこともない。裁判中もどこか他人事のような顔をして、頭を下げるわけでも、涙を流すわけでもなく平然と座っていました。私たちの大事な大事な息子の命を奪っておいてこのふてぶてしい態度は何なんだと、腹わたが煮えくり返りました。
加害者は今年6月で執行猶予期間も終わりました。きっと悠々と大手を振って暮らしているのでしょう。私たちの息子は二度と帰っては来ません。
保護観察付執行猶予期間中は保護観察所から時々簡単な書面が送られてきていました。△月に○回面談しました。と言う簡単な記録程度のものです。どんな生活しているとかの情報は一切ありません。被害者への謝罪を促したとかいうものもありませんでした。
私たちは加害者の態度が許し難く損害賠償を求めて民事裁判を起こしました。これもずいぶん時間がかかりましたが、2年3か月かかってやっと相手方に5,700万円の支払い命令が出ました。でも、相手には支払い能力はありません。今日まで1円たりとももらっていません。
お金が欲しくて民事裁判を起こしたわけではなく、相手にそんな能力は望めないと最初からわかっていましたが、息子の名誉のために戦ったのです。民事裁判を起こすにあたっては、弁護士への着手金、訴訟提起の手数料(印紙代)等であっという間に数十万円が飛んでいきました。法テラスの民事法律扶助制度を使わせてもらいましたが、息子を殺された上に、これら裁判費用も全部持ち出しです。今は何とか息子の名誉はそれなりに認められたという思いだけが心の支えで、毎月法テラスに弁護士費用を返済しています。
今でも時々「どうして助けてあげられなかったのか」「息子のもがき苦しむ声を何で母親の私は感じ取れなかったのか」「母親失格ではないか」と言う思いが湧いてきていたたまれなくなることがあります。
私はきっと一生この思いを抱いていくのだと思います。