生と死を経験した交通犯罪~心の支援と生活支援~
公益社団法人埼玉犯罪被害者援助センター
自助グループ「彩の樹」
関東交通犯罪遺族の会「あいの会」
J・O
「犯罪被害者の声第9集より」
「みんなバラバラの病院に運ばれているって、生死も不明だって」
主人と結婚して一年目の出来事でした。突然主人の両親との別れを言い渡されただけではなく、それまで一緒に生活をしていなかった双子の弟妹が重体重傷となって共に生き抜く事になりました。
2008年2月17日午後7時35分埼玉県熊谷市の路上で発生した交通死亡事案は、6時間もの飲酒の末、2軒目に行ったキャバクラの開店時間までの暇つぶしの為に高速度で飲酒運転を続け、私達の両親と弟妹の乗る車に正面衝突したというものでした。この事件は3台の車9人が関わり、裁判では加害者(危険運転致死傷罪)と同乗者2名(危険運転致死傷ほう助罪)だけではなく、酒提供者(道路交通法酒類提供罪)も処罰された事件でした。
家族が突然巻き込まれた交通犯罪に、私達夫婦は全容がわからず、全身の震えが止まらないまま、朝までに家族4人の生死の確認のため5つの病院を手分けして駆け回りました。その間、不思議と警察官とは誰一人会いませんでした。
両親は別々に搬送され死亡確認、弟は2度救急搬送、妹は事故現場から離れた病院へ搬送されました。全員の生死を確認し終わった頃、両親が搬送された病院から、「このまま遺体を病院には置いておけない」と言われ、一台の霊柩車で父を病院から家に連れて帰り、二人分の布団を敷き、その後母を病院に迎えに行き布団の上に寝かせました。
日帰り旅行に行った母と妹を父と弟が駅まで迎えに行き、お土産話に家族が揃って笑っているはずでしたが、家の中は静まり返っていました。
2日目の朝、警察で初めて「飲酒運転の可能性があります」と言われましたが、私達夫婦は家族の被害の大きさに、警察官の言葉が耳から流れていく様に感じていました。
ただ、その時に警察官から「支援室から電話をしてもいいですか」と聞かれ「はい」と答えたような気がします。誰が何をしてくれるかもわからないまま、多くの人が私達の周りにいました。警察官も役割があるようでしたが冷静に判断できるだけの精神状態でもありませんでした。というのも、夜中に、弟は「今日が峠です」、妹は「失明の危険性がある」と言われたからです。両親の死を受け止める間もなく、息が止まりそうな電話の本数や書類の多さだけが無情にも事の重大性を物語っていたのです。この頃の私達は寝る事、食べる事、洗濯など、日常生活のすべてが出来ませんでした。それは数ヶ月続きました。
弟妹には治療を優先して欲しいと思い、残酷な両親の死亡の事実の告知をためらいました。2日後には事情を話して、妹を弟がいる大きな病院に受け入れてもらう事ができました。そして救急搬送された妹をストレッチャーに乗せたまま、ICU にいる弟に会わせました。二人の手をそれぞれのベッドの柵の合間から握らせてあげました。二人は、生きている事を確認するように互いの手を握りしめ、「生きていてくれてありがとう」と言って涙を流し、私達は4人でその場で泣き崩れました。
一週間後に行われるお通夜の前日、両親の死を告げる事に決めました。私達夫婦、弟妹その精神科の主治医や看護師長の皆さんにサポートしてもらいながら伝えました。私達にとってその時に妹が言った「絶対に許せない!」という加害者への言葉が、戦いの始まりとなり、その後の裁判という非日常を乗り越える為の支えとなりました。
私達にとって5年も続いた3つの刑事裁判には真実を知るために計25回も裁判所に通いました。弟は車いすでしたが、支援者の方が様々な手配をしてくれて傍聴する事ができました。
後に弟は、裁判を傍聴する事ができた事で、両親の葬儀に出る事ができなかった自分自身を批判する事をやめる事ができたと言っていました。ですが、弟妹は加害者車両、民家の塀、道路への衝突の3回の衝撃で脳や体を強打し、PTSD と高次脳機能障害を発症しており、障害を抱えながら真実を追求するという事は言葉に尽くせないほど大変だったと思います。弟は3回の手術、5回の入院、妹は3回の手術と4回の入院、合計21か所の病院を回りながらの裁判でした。
精神的にも肉体的にも限界を感じた事は多々ありました。家族の中での意見の食い違い無駄な言い争い、そんな中で離婚を考えた事もありました。特に4歳だった息子が小学生になり、丈のあってないズボンをはいていたのに気づいた時、自分のふがいなさに涙が出ました。
そんな時、泣きながら相談に乗ってくれたのが、民間の援助センターの方でした。また、妹にとっては、入院中に来てくれたセンターの方が背中をさすり、話しを聞いてくれた事が精神的な支えとなったようです。事件から日が経ち、友人には話せない事が増える中で、センターの方が裁判や加害者への不安について理解をしながら聞いてくれる事によって、漠然とした不安が、少しずつ消えたようです。弟は、自分自身は何も悪くはないのに、自分が車を運転していた事で、下半身の麻痺や脳の障害を抱えながらも、家族を守れなかった事について、「自分が信号一つ止まっていればよかった、全部俺のせいだ」「なんで生きているんだろう」と未だに自分自身を責め続けているのです。ですが、7年たった最近、「彩の樹」で弟と同じような経験をした方に会う事ができ、その方の「生きている事が申し訳ない」という言葉を聞き、弟は、「自分だけではなかった」と共感した様でした。遺族同様に同じ様な経験をした人が集まり話をする事や意見を聞く事の意義をとても感じました。また、私達家族は、早期支援を受けた事で、「家族の中での意見の食い違いがあってもいい」という事を知る事ができ、互いに意見が違っても伝え合う事が大切なのだとわかりました。被害者遺族として家族を亡くした喪失感、被害者家族として共に生きる事の苦しさについても、それぞれ違う苦しさがあるのだと知りました。
また犯罪被害者となり、様々な情報に翻弄されました。インターネット上では情報量が多すぎて困りました。過去と未来とを混同している法律意見や地域ごとに違う支援内容があり、その区別がつきませんでした。その経験を活かし「被害者ノート」も他の罪種被害者や支援者と共に世に出す事ができました。ですが警察官や検察官、病院、学校や会社の関係者や地域の方が、「犯罪被害者支援」を知り伝える事が、暗闇の中にいる被害者には、一番の支援に繋がると思いました。
今後願う事は、「心の支援」だけではなく「生活支援」です。
よくテレビで「被害者の方に寄り添った心のサポートが必要ですね」と言うのを聞きますが、生活がままならないのに、心の支援をされても決して「心」は安定しません。犯罪被害者本人・家族・遺族含めて、せめて衣食住が人として最低限は確保してもらえる様に、また緊急に子供の保育や高齢者の受け入れなどの生活支援を受けられるようになって欲しいと思います。
被害者は死亡事案も後遺症事案も、住んでいる市区町村で、多くの書類を書きます。同じ説明に何度も辛い思いをしました。それぞれに「犯罪被害者窓口」を設置するだけではなく、具体的な運用をしていただけるように「犯罪被害者条例」が全国にできる事を願います。
犯罪というと加害者の更生だけが目立ちますが、犯罪被害者も知る事で、誰もが暖かな心を持てる子供たちを育て、被害者も加害者も作らない未来になってほしいと思います。