十三回忌に思う
公益社団法人秋田被害者支援センター
H・S
「犯罪被害者の声第10集より」
平成十六年四月二十一日、秋田市の市道交差点、押しボタン式の信号機青、バイク直進停止線があるのに、加害者である乗用車走行衝突。
バイクに乗っていた娘は意識不明の重体事故から四日目に死亡二十四才でした。
娘の生まれ育った事から書いてみたいと思います。父親は建築業、母親の私は美容師、職人の良さと、大変さを小さい時から見て来た娘、将来はパテシエになると決め、女子高の英語科に進学、仕事で為になると思いアメリカサンディエゴにホームステイをし、卒業後は大阪あべの辻調理師専門学校へ進み、小さな過疎の町から人口も多い大阪へ。
大阪は楽しいよ娘との会話、卒業後は、ホテルニューオータニ大阪に就職、朝早くから夜遅くまで頑張っている娘、高校生の時は山岳部に入部、山の厳しさを知った思い出を最後に、かけがえのない充実した日々の蓄積であり等身大の自分を写しだす事が出来た鏡のようなものでした。娘が残した大切な言葉です。
山を登り一歩ずつ成長していく娘を誇らしくも思いました。
後に家の跡継ぎと言う事もあり親が帰って来てと呼びよせた後の事故でした。
親も又、生まれ育った所に店を出す土地を用意していたのにそれもそのまま残っています。突然の死を信じられず誰の葬儀かもわからずに時間だけが過ぎて加害者がいるのに、自分の子供を守れなかった後悔、自責の念にとらわれ、心身共に疲れがおしよせます。
事故後の手続き、裁判の事もわからず加害者の賠償・弁護士さんまかせでこれで良かったのかと悔いが残ります。そんな中でテレビで大切な娘さんを亡くされたMさんを知り、被害者支援センター内で初めてお会いしました。Mさん自身も大変なのに、お電話やお葉書をくださったりささえて下さいました。
十三年の月日にもお友達や同級生が娘に会いに来てくれます。お母さんになったり、バリバリお仕事頑張っている方もいます。
生前の娘の事に話がはずみ、帰った後娘がいたらと胸をつかれる思い、娘が良く言っていた「ガンバルべえ」の言葉で自分に言いきかせる娘が亡くなってから考える力もなくなり、仕事にも支障が出て美容院を閉めてしまいました。何の為に今まで歩きつづけて来たんだろうと思います。
慰めのつもりで掛けてくれた言葉にも傷つき、被害者の心情は被害にあった人でなければわからないと思います。
十三年たって娘の事は家族で話しても、近所の人や自分の友達には話せない「まだしゃべっている(言っている)」と言われる。ただいまと帰って来ておっとうは仕事「うん」夜ごはんつくるネ、さっさとつくる娘、元気でいたあたりまえの生活がどんなに大切であったか。
忙しい、忙しいと暮らした日常。
つらい思いを仏壇のローソクに灯りをたくす。娘の死が人を思いやる心の大切さを教えてくれた様にも思えます。今は畑と、庭の草とりを無心で作業している時がやすらぎます。十三年たって今できる事を一つ一つゆっくり自分の心の整理と娘が残した思い出の品をかたづけなければと思います。事故の事については話したくない時もあります。
本当にくやしかったのは娘だったと思うし五十年、六十年とやりたい事がいっぱいあったはずの人生道なかばにしてなくなった娘、加害者はたずねてくる事もないです。だれもが加害者・被害者になってほしくないです。私も年を重ね又、娘もまっていると思うし、毎月命日のお墓参りに季節のお花を持って元気なうちかかさずにいかなければと思ってます。
お忙しいのに被害者支援センターの方々がN市に来てくださいます。私自身の話に、やさしく気づかいながら話をきいてくださいます。
十三年ささえてくださってありがとうございました。
被害者支援センターの方々の御尽力により、当時とくらべ少しずつ改善されて全国のネットワークもあります。被害者の方は一人でなやまず被害者支援センターを知ってほしいと思います。