あの日から…。
公益社団法人被害者サポートセンターおかやま(VSCO)
匿 名
「犯罪被害者の声 第18集」より
「会いたい。」
「Aは、私の大切な娘だよ。あなたは幸せでしたか?」
20時ごろ、
「ちょっと出かけてくるね」
「も〜行かなくていいが」出かけようとする娘を怒りながら見送った。
「やっぱ行ってくるね」一瞬出かけるのをためらった様に見えた背中。
まさかその背中が元気な娘を見る最後になるなんて、この会話が最後になるなんて、その時の私は、想像もしていませんでした。
事故があった日、19歳のAが旅立ってしまった日。
私が感情を置き忘れた日。見える景色が白黒に変わった日。
あの日から月日だけが過ぎています。
もう3年、まだ3年…。私の感じ方は一体どっちなのか自分でもよく分かりません。
ただはっきりと言えるのは、この日を境に私の日常が、人生が一変しました。
娘は、無免許運転の車に同乗し、命を落としました。
加害者は当時18歳の少年。100キロを超えるスピードで走行しハンドル操作を誤り道路脇のガードレールに衝突。車は大破し車内にはガードレールが突き刺さっていました。
この事故により娘は、14日間、意識不明の状態の後一度も目を覚ますことなく、この世を去りました。
娘は、右腕や足の骨折、骨盤の骨折、肺や脾臓の損傷に加え脳挫傷。事故現場で救命措置をしてくださった主治医からは「うー」と唸り声を上げたのちの痙攣を起こし心肺停止状態になり、アドレナリン投与にて何とか一命を取りとめ病院に搬送されたと聞きました。
4時間以上にも及ぶ手術の後に医師から説明されたのは「脳の腫れがひどく非常に危険な状態です。一命は取りとめても生存は30% 以下で元の状態に戻ることは極めて厳しい」と。その日から娘がこの世を去るまでの間、何度か娘の命の選択をしなければならない時がありました。それは言葉にならない程の苦痛で耐えがたいものでした。
娘の事を文章にすることについては、私の中で葛藤もありますが、私の想いが少しでも伝わりますように。私の娘「A」がこの世に存在していたことを知っていただけたらと思っています。
「Aが意識不明で運ばれている。」知らない電話番号からの不在着信に折り返す間もなく長女からの電話で、Aが事故にあったのを知りました。事故の詳細をこの時はまだ知りませんでした。パニックの中、病院につきましたが、 娘は手術中で会うことはできませんでした。当時はコロナ禍で、面会制限がかかっていたので、ボイスレコーダーに家族、親族の声を録音し病室で流してもらっていました。「Aまた遊ぼうね。」「A、元気になって帰っておいで」「待ってるよ」それぞれが、それぞれの想いを込めて言葉を録音しました。きっと娘にはその声が届いていたと思います。その声を聞いて必死に生きようとしてくれていたと思います。
そして当時を振り返ってみても記憶は抜け落ち、当時の感情は「無」に近い状態でした。きっとそうでもしなければ、心が持たなかったのだと思います。「母親だからちゃんとしないと」という思いもあったのかもしれません。
主治医に最後の希望を聞かれ「娘はかわいらしい顔をしていました。旅立ちの時が来るのなら、綺麗なままで逝かせてやってください。」と伝えました。
Aと私たち家族について
4月16日2536g で、私の3人目の子供として世に生を受けました。
兄や姉とは6歳ほど年が離れており、我が家のアイドルでした。物心つく頃には、兄や姉の後をついて回るような活発な女の子でしたし、姉や兄も年の離れた妹をとても可愛がっていました。笑ったときに見える八重歯は、娘のチャームポイントでした。しかし、小学校に上がってからは友人関係に悩むことも多く、一時期は、周囲の人間の心ない言動が原因で学校に行くことが難しくなったりしたこともあります。そのような問題に直面する度に、親子で一緒に苦しみ、泣き、衝突しながら何とか問題を乗り越えてきました。バスケットボールやアーチェリーを通じて穏やかに流れる時間もありました。誕生日やクリスマスには家族で楽しい時間も過ごしていました。辛く、苦しいことがある中でも家族思いで、心の優しい子でした。年明けに控えた成人式で着る振袖も選び、式当日を楽しみにしていました。
私も娘に「成人式おめでとう。生まれてきてくれてありがとう。色々なことがあったけど、私はAの母さんで幸せだよ」と言うつもりでした。
友人関係に悩むことの多かった娘が「新しい友達ができた。同じ年の友達もできたし、すごく楽しい」と成人式もその友達と出席する予定でした。きっとこれからは幸せな未来が娘にはやってくる。そう思っていた矢先に起こった事故でした。事故により一瞬にして娘の未来は閉ざされました。そして私の心も閉ざされました。真っ暗なトンネルに、出口の見えないトンネルに…。
娘を見送る
Aの急変の連絡を受け病室に向かうと、モニターの波形はフラットで波打っていませんでした。自然と涙が溢れ「Aちゃん、よく頑張ったね。みんな待ってるから帰ろう。寂しかったよな。しんどかったよな。ごめんね」と声をかけ頬を触ったとき、また温かったのを覚えています。
葬儀までの数日間は、娘のそばにずっといましたが、涙は出ませんでした。
やはり感情は何処か別の所にあったように思います。そして娘がいなくなることを実感していなかったです。ただ、目の前のことを精一杯こなし、娘に会いに来てくれた友人や私の友人たち、家族や周りの方に失礼のないようにと思っていました。「ちゃんとしなきゃ」ただその一心でした。
私が喪主から母親に戻ったのは、葬儀の終盤の最後のお別れの時でした。
「いや、A起きて!!まだ間に合うから早く起きて!いやだ。A!」と周りの目を憚らず、我を忘れて泣き叫び頬を触った時、頬は氷の様に冷たかったです。そして、事故から葬儀まで何処かに置き忘れていた感情が一気に溢れ出た瞬間でした。
なんで・・。どうして・・。逝かないで・・。起きて・・。何度も叫びましたが非情にも棺の蓋は閉じられました。
火葬場では、通常はあるはずの最後のお別れはなく、炉の中に運ばれていく棺をガラス越しに見るだけでした。無情にも最後の最後、娘を見ることも出来ませんでした。
職員の方が淡々と業務を行っている姿をぼんやり見ていました。
そして炉から出てきた骨を目の前にし、あんなに綺麗に伸ばしていた髪、笑ったときに見える八重歯、可愛い顔はなくなり、白骨と化していました。それを見たときも感情はないままでした。目の前にあるのは、ただの物体。骨を拾っているときは「なにしょんじゃろー」と心の中で思っていました。娘の骨を拾っているという感覚は全くありませんでした。
骨壺に入っている小さな小さな娘を抱っこした時には「私の所にやっと帰ってきた」そう思う反面、暗いくらい海の底に沈んでいるような、自分が生きているのか死んでいるのか、夢か現実かもわからないような気持でした。
娘を失って
Aが亡くなってから、日々を泣いて暮らすとか、取り乱すとかはありませんでした。でも、当たり前の日常はなくなりました。私は何もする気が起きなくなり働くことも出来ず、家事もままならない状態になりました。ただ何となく時間だけが過ぎていく。娘の帰りを待ってる自分もいました。何のために生きているのかもわかりませんでした。そして、不眠、不安、恐怖、動悸。「また、朝がきた。なんで朝が来るのだろう。」と朝の目覚めの瞬間から気分は落ち込む状態。生きているとは程遠い感覚。子供を失うということは、想像を絶するような苦痛と最大の悲しみ。言葉には表すことのできない絶望感。
二次被害
周りの人は「落ち着いた?」「子供はAだけじゃないから元気出して」「私だったら子供が先に逝ってしまったら生きていけんわ。強いなー」と声をかけられ、人前では作り笑いと元気を装うしかありませんでした。ちょっと弱音を吐いたら「そんな弱音を聞いたらAが悲しむ」「Aの分まで幸せにならんと」と慰めや励ましの言葉だと分かっていても、生きてるだけでも頑張ってるのに、これ以上何を頑張るのか、この辛さや苦しみは分かってもらえないんだなと思いました。まさに孤独でした。
辛いことがあったとしても強くたくましく生きていることを期待されている。それは自分の身に起きていないことだから理解できないのだと被害者になって初めて理解できました。励ましのつもりで言ってくれている言葉も私にとっては、プレッシャーとなり、心に大きくのしかかりました。
また、自分の事も責め続けました。「なんで外出させたのか?」「なんでもっと止めなかったのか?」「私の育て方がいけなかったのか?」「母親失格なのではないか?」「私の所に生まれてこなければ死ぬことはなかったのではないか?」毎日毎日、自分を責め続けました。娘がいないという現実を受け止めることができない日々。まるで暗い海の底にいるような気分でした。後にPTSD と診断され現在も通院中です。
事故の事は全国ニュースで流され、SNS では「ごみ掃除ができた」「自業自得」「処分出来てよかった」「人に迷惑をかけずに自分たちだけで逝ってくれてよかった」などの書き込みがありました。
当時の職場では私の知らないところで、事故の記事を印刷してあったり、ニュースを録画しスマホで職員に見せたりとまるで見世物でした。悪意のない行動かもしれませんが、これにより私は孤独感と人に対する恐怖感が生まれました。
娘は事故で命をうばわれたのに、被害者ではないのか?娘の死をあざ笑ってる人がいることが許せなかったです。「娘の事を何も知らない人たちに批判されたくない。」しかし、その声を上げることは、怖くてできませんでした。
周りの人との感覚の違いや溝がある事は、私をさらに奈落の底へ落としました。
警察
事故の状況が全く分からない私は警察に何度か問い合わせをしましたが「捜査中で答えられません」「被疑者は素直に取り調べに応じています」との返答でしたが、被疑者が取り調べに応じているか否かは私の知りたいことではありませんでした。
事故当初から担当してくださっていた警察の方は人事異動となりました。進捗状況が知りたくて警察に問い合わせをしたところ、「異動したばかりで、事件の調書に目を通すことができていなくて、 何も伝えることはできません」と言われた時、警察にとっては数ある事故の一つで、私のこの気持ちは分かってくれない。所詮は他人事なんだなー。と悲しくなりました。出来ることなら裁判が始まるまでは同じ方に担当して欲しかったです。
刑事裁判
刑事裁判では自らの口で言葉で裁判長に気持ちを伝えたいと被害者参加制度を利用しました。刑事裁判では被告人を目の前にし感情が揺さぶられたり、裁判所という独特な空間の中で緊張感もありました。素人には分からないことだらけでしたが、理不尽に命を奪われた娘のために自分にできることをやるという強い気持ちで臨みました。
被害者支援の方や弁護士さんの支えもあり公判を終えることが出来ました。
刑事裁判が終わり3年6か月の実刑判決が下りました。見方によっては判決が厳しいという見解もありますが、実刑が長くても、短くても娘はもう戻ってきません。
どれだけ長い実刑判決が下ったとしても、納得することはありません。裁判の中で「今回の事故は被害者に非はありません。事故を起こしたことについては被告人の責任です」と裁判長が言ってくれたことは、暗いトンネルに少しの光が見えたような気持でした。
刑期が終われば、加害者は自由です。娘の未来は奪われたのに、加害者には未来があります。自由があります。それが悔しい。
加害者の父
加害者の父は、「おかあさん。ごめんよー」と事故の翌日に連絡があっただけです。
たったこの一言で謝罪が終わったのです。当時、顔も知らない相手からの謝罪がこの一言。大切な娘の命を奪われ、謝罪とも言えない言葉…。人の命を何だと思っているのか。言葉も出ませんでした。このことは一生忘れる事はありません。
被害者サポートセンターおかやま(VSCO)と出会って
事故から半年ほど経過していたと思いますが、知人の紹介で被害者サポートセンターおかやま(VSCO)を知りました。事故直後に警察の方からパンフレットを渡されていたのかもしれませんが、それを見る心の余裕などは全くありませんでした。
勇気を振り絞って電話をしました。支援員の方がとても丁寧で私を包み込んでくれる。安心感がありました。何をどう話したか記憶は殆どなく、その時に思っていたことを吐き出したのだと思います。「犯罪被害者ですよ。」そう言っていただいた言葉は、私の心に今も深く印象に残っています。その後は、心療内科の通院に繋げて頂き、通院には付き添っていただいたりしました。裁判にも傍聴席から私を見守って下さり、私の気持ちにも寄り添って頂きました。
警察の方にお願いがあります。被害者支援の事を被害者の耳に届くようにしてください。
消えない悲しみ
Aを失って3年という月日が過ぎようとしています。周りからみれば、元気を日常を取り戻したかのように見えると思いますが、突然、娘を失った悲しみや辛さ、悔しさは一生消えることも薄れることもありません。そして、事故が起きた時、娘は車内でどんなに痛い、怖い思いをしたかを考えるだけで、胸が張り裂けそうです。笑い合うことも、娘にお説教することも、一緒に食事をとったり、外出することもないのです。なんでこんなことになってしまったのか・・。時計の針を巻き戻すことが出来たらどんなに良いか。戻りたい、当たり前の日常があった頃に戻りたい。Aに会いたい。と思います。娘が帰ってこないことは頭では理解していますが、それでも「会いたい。返して欲しい。」そんな心とは裏腹に明日という日はやってくるのです。無情にも未来にしか時計は進んでいかない。
被害者になって思うこと
加害者が少年であること、逃亡の恐れがないことを理由に、加害者は在宅起訴され、刑が確定し刑が執行されるまでは、自由に日常生活を送っていました。アルバイトもしていました。裁判では国選弁護人が守ってくれます。刑務所に入ったとしても、衣食住は確保されます。
ある意味守られています。
被害者はそうではありません。被害者参加制度を利用しても費用はかかり、働けなくなっても保証もなく、病院に行くにしても自力でいかないといけない。そして、捜査状況は教えてももらえない。そんな状況では心の靄は晴れません。
あの日、娘が感じた恐怖、痛み、不安、無念さを思うと心は張り裂けそうですし、親として何もしてやれなかった、できなかった自分が情けない。もっとできることはあったのではないか・・痛恨の思いです。それなのに加害者が守られているのはなぜ?と感じざるを得ません。
残された私たち家族は一生深い悲しみや苦しみと共に生きていかなくてはなりません。
「わが子を失った」このことは、辛く、悲しく、悔しく、言葉では表しきれません。
血を吐く思いで日々を暮らしています。この先ずっとこの生活が続きます。突然、被害者となってしまった遺族は心と頭がついていきません。感情表現さえできなくなってしまいます。それでも今回手記を書こうと思ったのは、私を支えてくれた方々のために何か私にできることはないかという思いと、娘の生きた証を残すためです。車に同乗してしまった娘の事を世間は批判するかもしれません。SNS の書き込みの様に娘は2度殺されるかもしれない。私も誹謗中傷されるかもしれない。犯罪被害者遺族であるのかも私にはわかりません。しかし、大切な娘の命を奪われたのは紛れもない事実です。
娘を亡くした私にしかできないこと、私だからできること。何かのきっかけになってほしいです。そして、今の私の生きる目的です。
私も支援員の方やごく限られた友人には支えられて今まで生きてこれたと感謝もしています。「一人じゃない」と思えるようにもなりました。傷ついた被害者や遺族への支援が広がり、一人でも多くの被害者、遺族が救われますように。「一人じゃない」と思える世の中になることを願っています。