犯罪被害者に寄り添い支える 公益社団法人 全国被害者支援ネットワーク

全国被害者支援ネットワークは、全国48の加盟団体と連携・協力しながら
犯罪被害に遭われた方々へ支援活動を行なっています。

犯罪被害者の声 「あの夜」〜傷ついた娘と歩んだ日々〜

「あの夜」〜傷ついた娘と歩んだ日々〜

公益社団法人おうみ犯罪被害者支援センター
匿 名
「犯罪被害者の声 第18集」より

あの夜、「お母さん」と泣くような娘の声で目が覚めました。
娘は専門学校の授業がコロナ禍でオンラインになり、自宅学習で運動不足のため毎日ウォーキングするのが日課になっていました。また、仕事で私の帰宅が遅いため、認知症の義母の夕食や着替えなどを見守って20時頃から毎晩ウォーキングしていました。
あの日も私が仕事から帰ると出かける用意をしていたので、今日は気温が高いよなどと話して見送りました。遅い時間に歩く事が危ないとは思っていましたがこの習慣が1年近く続いており安心してしまっていました。治安がいいとされている地域でまさかこんな犯罪に合うとは本当に夢にも思っていなかったです。 

男の人にナイフで刺された
呼ばれて目が覚めて玄関まで行くと土間に座り込んで「刺された。男の人にナイフで刺された」と太ももにタオルを当てている娘がいました。玄関やリビングに血の跡があり、私は慌てて寝ている夫を起こしにいきました。夫も飛び起き、私が警察か救急車のどちらに電話するのか迷っていると「早く救急車を」と言われ119にかけました。同時に夫が警察に電話をしてくれました。娘に刺された以外に何をされたのか聞くと胸を触られただけと答えましたが、息も絶え絶えで顔色も悪かったため、もう話さなくていいからと私も隣に座り「もう大丈夫」と抱きしめていたのを覚えています。
まもなく警察官が来られ、娘に犯人の事や襲われた場所を聞いていました。娘はしっかりとした口調で警察官の質問に答えていました。救急隊も到着し、清潔なガーゼで傷を押さえようとされ、警察官は傷口の写真を撮っていました。救急車に乗り警察官も同乗され何度も犯人の事や場所や何をされたかを聞いていました。娘はしっかりと質問に答えていましたが私は早く病院に連れて行ってほしいとお願いしました。また何度も同じ事を聞く警察官の方に苛立っていました。病院に着いて処置をしてもらい初めて娘が泣き出したようで側に行き2人で泣いてしまいました。
それから明け方まで処置が続き、病院を出てから刑事さんと事件現場を確認しに行き朝方に自宅へ帰りつきました。
娘のベッドの横に布団を敷き一緒に寝ましたが、一睡も出来なかったです。
その日は午後から警察での事情聴取があり、娘は刑事さんも驚かれる程落ち着いて淡々と答えていたようでした。

娘が一番の生活へ
翌日、傷口からの出血が酷く病院に行き、娘は傷口の痛みで歩くのもままならなかったので車椅子で移動していました。男性が近くにいるとそれだけで怖がっていました。
娘は、首を絞められたためか喉に違和感があり食べたくないと数日はゼリーしか食べれませんでした。また、その時に犯人の顔が自分の左側にあったため気持ちが悪いと左側をずっと気にしていました。夜に寝れなくて私が左側から娘の体をさすっていると「右側にきて!」と言われた事もありました。
廃人のように表情を失い、か細い声でしか話さない娘を見て、この子がもう一度心から笑う事はもうないのではないか。あの笑顔はもうみれなくなってしまったと絶望感に苛まれました。
それから、家の中でも1人にする事が心配だったので私の母に来てもらい私は仕事に行きました。ただ、仕事をしていても気持ちが動揺して仕事にならなかったのでしばらく休む事にしました。
今から思えばこんな時でも仕事に行かなければと思う私はそれだけ仕事中心の生活でした。また、「私のためにお母さんの人生を狂わせたくないから仕事に行って」と娘に言わせるくらい家庭よりも仕事を優先していたのだと思います。
その後の私は優先順位が変わってしまい、何に置いても娘の事を1番に考えるようになりました。
娘にとって1番いい事は何か、被害者の家族として何をするべきか模索しながらの毎日でした。刑事さんから頂いたおうみ犯罪被害者支援センターのパンフレットを見て事件から3日後に電話しました。
辛かったですねと声をかけて頂き、涙が溢れました。支援センターでこれからの裁判に向けた流れや市からの犯罪被害者への助成金についてなどいろいろと教えて頂きました。
その後は傷口にいいと言われる事をいろいろ試したり、少しずつご飯が食べれるようになってからはとにかく娘が食べたい物を用意して一瞬でも嫌な気持ちを忘れられるようにしました。しかし娘は、友達がお見舞いに来てくれても直前になって会いたくないと塞ぎ込む事もあり、何も楽しみがない日々を送っていました。

「全てをやり直したい」
1 ヶ月ほど経った頃に「おばあちゃんといたら大丈夫」と言うので義母のデイサービスをキャンセルして家にいてもらうようにしました。事件前、娘は認知症である祖母との会話は同じ事の繰り返しでストレスにもなっていましたが、事件の後は気も紛れたのか何度も同じ話を聞いていました。
ちょうどコロナによる緊急事態宣言が明けてそれまでのオンライン授業から対面授業に変わっていきましたが、娘は1人で外に出れなかったり、電車も怖がっていたので特別に1人だけオンライン授業にして頂きました。ただ、1人だけ対応が違う事に戸惑ったり、疎外感を感じ、事件後の学校生活はそれまでと一変し、娘にとって苦痛なものになりました。何度も泣いて辞めたいと言い、私も命が助かったのだからしたいようにすればいいと思い休学や退学は仕方ないと思っていました。しかし目標が無くなる事に不安を感じたので何とか続けれるように学校の先生方と連絡を取って宥めるような形で続けていました。
夏休み前のテストはどうしても学校で受けなければならなかったため、私も付き添い登校しましたが、不安だと泣きながら向かっていました。
それでも、夏休み中には離れた所にいる方が安心できると遠方へ自動車教習所の合宿に行ったり、ライブを見に行ったりと少しずつ一人で出かけられるようになりました。
高校の友達と会って帰りが遅くなり駅まで迎えに行った時も「夜に出かけても大丈夫だった!」と娘自身も喜んでいました。
夏休みが終わり後期の授業が始まり、いよいよ登校しなければならないとなった時に誰が事件の事を知っていてどう思われているのかわからないのが怖いと言い、自分からクラスの皆んなに事件の事を話したりしていました。
しかし、気持ちに波があった娘は段々と仲の良い友達との間に溝が出来ていました。そのため、事件がなければこんな気持ちにはならなかったと泣いて、「全てをやり直したい」と言うようになりました。そのうち事件後初めて「死にたい」と言うようになり、私は動揺し支援センターの方や県警の心理士さんに相談し心療内科に受診したりカウンセリングをお願いしたりしました。
今回の事件で私が1番恐れていたのは娘がPTSD になり日常生活に支障を来たしてしまう事でした。娘は「私は病気じゃない」とカウンセリングを嫌がったので私が代わりにアドバイスを受けたりしました。誰でも必ずしもPTSD になるわけではない事、娘の状態は異常事態の正常範囲だと教えて頂いて少し安心しました。

犯人逮捕の衝撃
そのような状態で何とかやり過ごしていた頃、事件から約5 ヶ月経って犯人が逮捕されました。刑事さんから電話を頂き、何とも言えない気持ちで電話口で泣いてしまいました。その後娘に伝えて2人で抱き合って泣きました。
娘の第一声は「よかった」ではなく「怖い」でした。私も娘もやっと日常が戻ってきた頃に現実に引き戻された感覚でした。周囲からは逮捕されて良かったねと声をかけられますが、心底良かったとは思えなくてまた事件の事に関わらなければならないと思っていました。娘の精神状態は更に悪化し、また私も仕事に集中出来ない日が続きしばらく休職しました。検察庁での確認や弁護士さんとの打ち合わせなどが始まり娘も更に不安定になりました。
逮捕された犯人が生活圏内に住んでいた事や私と夫、娘と父親との関係も事件を機に複雑化していた事もあって私と娘は家を出て2人暮らしを始めました。
環境が変わる事で娘が落ち着く事が1番の目的でしたが、その後通学もしやすくなり少しずつ落ち着いてきました。年が明け弁護士さんから裁判の予定や被害者参加をするか、娘が証人として出廷しなければならない事の連絡がありました。
娘は理学療法士になるための専門学校に通っており、5月半ばからと8月から2か月間ずつの長期実習を控えていました。そのため裁判の時期をいつにするかとても悩みました。
5月の実習までに終わるのが良かったのですが大津地裁の予定が6月以降になると言われ、秋に実習が終われば国家試験への勉強が始まるため裁判を遅らせる事も避けたかったのです。そのため7月中の実習がない期間に終わるようにお願いしました。裁判の日程が7月19日からと決定し、証人尋問のための打ち合わせのため再度検察庁へ行く事になりました。また不安定になり実習に影響が出る事を心配しましたが、担当の検事さんが親身になって関わって下さり大きな混乱なく打ち合わせを終える事ができました。私の方が裁判を間近に控え犯人を目の前にして冷静でいられるのかとても不安になっていました。

7月末に4日間の日程で裁判員裁判が行われました。犯人が法廷に入って来た時は指名手配の写真と風貌も違い、思っていたほど混乱はなく見れました。娘は衝立で仕切られた場所で犯人や傍聴席からは見えなかったのですが、裁判官や裁判員、相手の弁護士からは見える所にいた様でそれが嫌だと言っていました。もう1人の被害者の方とは一緒に座り励まし合うように声を掛け合っていた様です。
証人尋問では休憩を挟んで2時間近く検事と相手の弁護士から尋問があり、一つ一つにしっかり答えていました。ただ、相手の弁護士からの尋問や意見はとても辛かったようで、帰ってから「私の言うことは信用してもらえないのではないか」と落ち込んでいました。
その後意見陳述は自分の思いを泣きながらでしたが口に出して伝える事ができました。
聞いている私も涙が止まらず、今思い出しても辛い体験でした。

悪夢から感謝の日々へ
判決は求刑12年に対し10年が下りました。
裁判長より判決を聞いた瞬間に全身の力が抜けて終わってホッとしたのか強烈な脱力感を感じていました。
娘は終わってから担当の検事さんに刑についてどう思うか質問され、「いいかどうかはわからないが自分のためにたくさんの人が裁判に参加し最後は自分の証言を認めてもらった判決だったので裁判に参加してよかった」と晴れ晴れとした顔で話していました。
判決を聞いた3日後には遠隔地実習のためワンルームマンションで一人暮らしが始まりました。事件後はずっと隣に寝ていたため一人で寝れるのか、生活できるのか心配でしたが2 ヶ月間何とか一人暮らしをしながら実習を終える事が出来ました。
私の方は裁判後に娘と離れた生活となり張り詰めていたものが無くなったためか体調を崩して2週間ほど寝込みました。
その後、実習が終わり10月より国家試験対策の勉強が始まりました。嫌がっていた通学のため心配していましたが、国試の勉強はグループで行うためそのメンバーに恵まれ楽しそうに学校に行くようになりました。事件を忘れて友達と一緒に夢に向かって勉強している娘を見てやっと安心出来た頃でした。春からの就職も自分が学びたい治療をされている病院を希望し、内定を頂く事ができました。落ち着いて通学し始めた娘に反して私の方が仕事の忙しさやストレスで心身の不調を来たしていました。
12月から私が長期的に休職し自宅にいたため娘の勉強のサポートをする事が出来ました。忙しいのが当たり前の生活から、娘と自分の事だけを考える日々を送り、長かった辛い毎日からやっと解放されて行く様に感じました。
そして2月中旬の国家試験は落ち着いて挑む事が出来、晴れて卒業式と国試合格という1番待ち望んだ日を迎える事が出来ました。
表情を無くした娘を見てこんな日が来るなんて想像も出来ず、笑顔で卒業式の晴れ着を着る娘を見て夢のようでした。お世話になった先生方に挨拶する時には涙で言葉になりませんでした。
国試を終えた頃に学校で友達と上手く行かずに悩んだ時の事を「あの頃の自分は余裕がなかったな」と振り返れるまでになっていました。また支えてもらった先生の為に何としても合格しないといけないと言っていたので、叶える事が出来て本当に逞しく強くなったと思いました。
今回の事件は悪夢でありもう2度と体験したくはありません。でも、この事件を乗り越えたお陰でたくさんの幸せを見つける事が出来ました。今は支えて頂いた全ての人に感謝しかありません。
おうみ犯罪被害者支援センターのMさんには辛い時や不安な時にメールで気持ちを聞いて頂いて励まして頂きました。
親としての私の気持ちを代弁して頂き、何度も勇気を頂きました。次々と犯罪が起こり、私達の様に支援される方が増える中でも向き合ってもらって本当に心強かったです。
裁判が終わってしばらくしてからこの手記を書き始めましたが、思い出して胸が騒ついたり涙が出て書けない事もありました。
段々と書けるようになり、私自身の気持ちも整理出来たのだと思いました。 あの日から2年になろうとしています。
娘は社会人として新しいスタートを切ることができ、私も娘と共に環境を変えて新たな人生を歩もうと思います。


ー支援員の手記ー
「今日と同じ幸せな日が続くはず」と思っていたその日常が、一瞬にして壊されて、その瞬間から犯罪被害者と呼ばれる。そんな被害者支援の基本に書いてあることが、実際に起こったのです。あの日から母娘で一緒に闘ってきた2 年間。OVSC の対応は100 回を超えました。その辛かった日々を文章にしてくださいました。紙面の都合で割愛したところもありますが、「命を懸けて娘を護りとおした」お母様の気持ちが溢れています。
3 月。娘さんの国試合格、卒業、就職の報告に来てくださったときの笑顔は、私たちにとっても宝物です。
(支援担当 M)