犯罪被害者に寄り添い支える 公益社団法人 全国被害者支援ネットワーク

全国被害者支援ネットワークは、全国48の加盟団体と連携・協力しながら
犯罪被害に遭われた方々へ支援活動を行なっています。

犯罪被害者の声 二度と戻らない日々

二度と戻らない日々

公益社団法人千葉犯罪被害者支援センター
匿 名
「犯罪被害者の声 第17集」より

2018年3月6日、私の父は交通事故により72歳で亡くなりました。あの日から、私たち遺族の時間は止まったままです。生前、父が暮らした家の中は、洗面所の扉を開けると愛用のヘアクリームとブラシ、クローゼットには父の洋服、シューズボックスには父の靴が整然と並んでいます。父の姿がないだけで、あの時のままです。

家族思いのやさしい父でした。私は、結婚して2年ほどは実家の近くで暮らしていましたが、出産を機に実家を二世帯住宅に建て替え、一緒に暮らすようになりました。一人しかいない孫娘の成長を生きがいに、とても可愛がってくれました。あるとき、父が旅先で孫へのお土産にケン玉を買ってきたことがありました。私が笑いながら「なんで、女の子にケン玉なの?」と訊くと、父は、照れながらも真剣に「息抜きになれば。」と返してきました。その頃、中学受験に向けて、友人とも遊ばず、塾通いを頑張っている孫への父なりの心遣いと愛情だったのだと思います。
亡くなる3日前にはひな祭りを家族で祝いました。普段口数の少ない父ですが、その日はとても饒舌に家族を楽しませてくれました。あの時の父の笑顔を、毎日のように思い出しています。
やさしい父との別れは突然やってきました。事故当日、たまたま仕事が休みだった夫と私は、13時過ぎに買い物に出かけました。いつもどおり、「行ってくるよ。」と声をかけた私に、「運転、気をつけて。」と返してくれたのが父との最後の会話になりました。
14時26分、買い物途中に知らない番号から携帯電話に着信があり、出てみると救急車のサイレンが聞こえてきました。そして、救急隊員から「あなたのお父さんを搬送中で、一刻を争う容態だ。」と伝えられました。頭の中が真っ白になり、パニックになりました。夫と一緒に、すぐに娘を学校まで迎えに行き、自宅に戻って母を乗せ、現場検証が行われている事故現場を通って、搬送先へと向かいました。搬送先の病院は自宅から遠く、途中、渋滞もあり、とてももどかしかったのを覚えています。
16時過ぎにやっと搬送先に到着しました。医師からの現状説明後にやっと会えた父は、たくさんの装置とチューブにつながれ、自発呼吸はしておらず、かろうじて装置によって生かされていることが私にもわかりました。最悪な事態が頭に浮かび、愕然としました。父は家族の呼びかけに応じることなく、そのまま18時24分に息を引きとりました。まだ温かい、ぬくもりの残る父の身体を皆でさすりながら、「お父さん、今までありがとう。」と言いました。
父が亡くなってすぐに警察の方が病院に来て、トラックとの接触事故の可能性があることを聞かされました。そして、私はそのまま父を安置した部屋でDNA採取に立会いました。まるで、テレビドラマを観ているようで、現実味がなく自分事には思えませんでした。取り乱すことなく、冷静に警察の指示に従って行動できた当時の自分が今でも不思議に思えます。あまりのショックに、まるで感情を失ってしまったかのようでした。DNA採取後、葬儀屋の方が父を迎えにきて、父と私が自宅に着いたのは22時過ぎでした。
「運転、気をつけて。」と送り出してくれた父が、数時間後には事故に遭い、亡くなるなんて、悪い夢を見ているようでした。翌朝には、何事もなかったかのように、笑顔で「おはよう。」と起きてきてくれることを願わずにはいられませんでした。
しかし、悪夢は覚めることなく現実でした。翌朝、声をかけても、父は眠ったままで、手を握ってみても氷のように冷たかったです。朝一番で、A警察署に事故当時に父が着ていた衣類を届けにいきました。父が着ていた上着は、背中部分に擦れた跡があり、血痕がついていました。「倒れて頭を打った瞬間、痛かったのだろうか?それとも意識を失ってしまったのだろうか?」、ひとり救急車に乗せられ搬送される父を想像し、胸が苦しく、張り裂けそうになりました。

それからは葬儀までは本当に慌ただしく、思い返してみても、どう過ごしてきたのか、あまり覚えていません。ただ、父が亡くなり、家族の生活は一変しました。無事に葬儀、四十九日を終えると、ホッとしたのか、母は体調を崩し、寝込みがちになりました。父が亡くなる前は、ふたりで散歩をしていたのに、そんなこともなくなり、今ではすっかり足腰も弱くなってしまいました。

「家族のために」が口癖の父は、71歳まで仕事をしていました。家族としては、70歳も過ぎたのだし、残りの人生を自分のために過ごしてほしく、働く意欲のある父を説得して退職してもらいました。それから事故で亡くなるまでの1年4ヶ月、好きな庭いじりをしたり、母との散歩を楽しんだり、家族旅行に出かけるなど充実した毎日を送っていました。私も散歩に出かける両親の後ろ姿を見送りながら、幸せを感じていました。

父が亡くなり、遺族年金の手続きを体調のすぐれない母に代わって、私が行いました。手続きを担当してくださった方が、71歳まで働いていた父の経歴を見て、「お父さんは、ずいぶん長く頑張っていたんだね。」と言葉をかけてくださいました。本当にその通りだと、涙が出ました。

父が亡くなって2年以上が経過した、2020年7月にようやく裁判が始まりました。私たち家族は、いつまでも裁判が始まらないことに苛立ち、苦しみました。裁判が始まり、そこで初めて見た被告人の姿に驚きました。忘れもしない、搬送先に駆けつける車の中から見た、事故現場で警察と話していた男性が被告人と同一人物だったからです。その時は、まだ父の状況が把握できておらず、救急車を呼んでくれた人なのかと思っていましたが、それは大きな間違いで、父の命を奪った相手だったのです。

無免許・無車検・無保険……。被告人はこれまでに一度も免許を取得したことがありませんでした。そればかりか、今回の事故だけでなく、過去にも同じ過ちを繰り返している被告人に、今までに感じたことのないほどの憎しみと憤りを感じました。そして、父の命を奪っておきながら、反省する様子もなく、不合理な否認を続け、事故以降も普通の生活を送ってきたことも許せませんでした。
公判で、被告人の妻の上申書が読み上げられました。「車の鍵は自分が管理しているし、これからも運転しないように眼を光らせたいと思います。」といった趣旨だったと思います。そもそも、これまで懲役刑や罰金刑も科されている夫を野放しにしていた人が本当に監督できるのか、そして、無免許運転を繰り返し行ってきた被告人を見過ごしてきた家族も、同罪であると私は思っています。被告人本人も「もう、運転は二度としないか?」との問いに「女房が鍵を管理しているから絶対に乗らない」と言っていました。鍵がないから運転しないのではなく、被告人は免許を一度も取得していないのだから、車の運転は決してしてはいけないのです。被告人のその認識の甘さが、父の命を奪うことになったのです。
そんな被告人は、係争中に離婚しました。仕事ができず収入がないから生活保護を受給するためだそうです。被告人と、眼を光らせると誓った妻の、身勝手で無責任きわまりない言動に怒りしかありません。被告人は、最高裁まで上告しましたが、2023年3月7日に上告は棄却され、懲役4年6月の刑が確定しました。最後まで罪を認めることはなく、反省も謝罪もありませんでした。そればかりか、裁判では常に目を閉じて俯き、正面に座っている私たち被害者遺族に視線を向けたことすらありませんでした。裁判が終わり、父に報告できると安堵した反面、父の命を奪っておきながら4年6ヶ月で許されてしまうことが受け入れ難く、複雑な気持ちでもあります。
父が亡くなったとき、中学生だった孫は大学生になりました。それだけ長い間、この判決を待ち、私たち被害者遺族は苦しんできたのです。このような辛くて悲しい思いは、誰にもして欲しくありません。そして、被害者とその家族に理解ある社会になることを切に願います。

最後になりましたが、事故直後から寄り添っていただいた千葉犯罪被害者支援センターの皆様には感謝申し上げます。足の弱い母に付き添っていただき、裁判が思うように進まず心が折れそうになった時には「最後まで伴走しますので頑張りましょう。」と励ましていただきました。活動を休止していた「自助グループ」が再開され、そちらにも参加させていただきお世話になっております。今後ともよろしくお願いいたします。