啓至とともに
公益社団法人福岡犯罪被害者支援センター
H・T
「犯罪被害者の声 第17集」より
それは1本の電話から始まった。2018年6月19日火曜日午前9時、「息子さんが事故にあったので病院に行って下さい。」という警察からの電話だった。私は、骨折でもしたのかと思って、主人の携帯番号を教えた。30分後に駐車場で主人と待ち合わせた。その時、「お医者さんが啓至は助からないから、覚悟して来て下さいと言われた。」と主人が私に言った。生き地獄の始まりだった。頭の中は真っ白。パニック状態。ただ我慢、我慢と自分に言い聞かせて病院に向かった。血の気が引いた変わり果てた啓至の姿。懸命に心臓マッサージをしている先生。「啓至さんは頑張ったから、もう楽にしてあげましょう。」との言葉に、「ありがとうございました。」というしかなかった。あの氷のように冷たい手!死んでも忘れられない。今、死んだんじゃないと叫びそうだった。
警察より先に加害者と保険屋が病院に来た。やっと来た警察にひどい対応をされた。後日、副検事が警察に謝罪するように言って下さった。本人じゃなくて上司が電話で謝罪してきた。なかなか送致されなかったり、遺族聴取の時に事故の説明をしてくれると言っていたのに、プライベートなプライバシーを聞いてくるだけだった。青いグランドシートをのけて、ぐしゃぐしゃになったバイクと啓至を殺した中型トラックを見せて、説明したことにしてくれと言われた。臭いと言って遺品の衣服を渡してきたりした。また、後日加害者に事故の説明を我が家にしにこさせると言うので、それは警察の仕事でしょと、警察に説明させた。それと、裁判まで全て終わった後になったのだが、警察に通達通りの被害者支援実施をしていただけなかった理由を尋ねた所、被害者支援の通達はただの連絡事項であって義務ではないと言われてしまった。いまだに交通死亡事故遺族は支援の対象外とハッキリと言う警察の人達がいる。地方自治体も同じ。警察は被害者支援について私達にいっさい説明する事なく、数年経っても支援になかなかつながる事はなく、これもこちらから申し込むと書類を書かされ、やっとつながった。
葬儀の打ち合わせをしたが、パニック状態のままで葬儀社の言う通りになった。大事な事を忘れていた。一人にしか連絡していなかったけど、同級生や同僚や担任の先生やアルバイト先の人達などたくさんの方に来て頂いた。お母さん達も来て下さった。「啓至君、眠っているみたいだったね。」と、皆さんに言われた。首から下は、破裂したり骨折したりしていたけど、顔はきれいな顔をしていた。棺のふたが閉まらない程のたくさんのお花に囲まれて、たくさんの人にかつがれて、白い車で旅立った。
メンタルの具合が悪かった私は、更に悪くなり痛み止めを飲んでも良くならないまま、ただただひたすら泣いていた!夜も眠れない!こんな私に親兄弟や親戚や友達は、いつまでも泣いていたら成仏しないよ、天国にいけないよと言うばかり。長男や孫達がいるんだから前向きに生きなくっちゃとも言われた。カウンセリング公費負担制度を使い、新しい病院で治療を受けた。しかし、この制度、自分たちで隅々まで検索して申し込むと、交通死亡事故遺族は警察の公費の対象ではないと最初言われ、すごく揉めて、やっと使える様になった制度であった。
私は、私の気持ちを理解してくれる遺族に連絡した!弁護士が紹介して下さった。すぐに男の遺族と一緒に来て下さった。それから1ヶ月後に開催された生命のメッセージ展との出会い!生き地獄に光が差し込んできた。
啓至は出勤の途中、加害者によって一方的に車で生命を奪われた。加害者は、徐行の看板無視、70 〜 80キロでとばし、ボーッと運転、前車に気がつくのが遅れ、センターラインをオーバーし、息子に正面衝突をしてきた。午前7時45分の事であった。
刑事裁判も民事裁判も納得していない!刑事裁判で加害者が「一生をかけて償います。」というのは、嘘。危険な運転をする加害者に運転を止めるように意見陳述で言ったけど、「今度は絶対に事故を起こさないので、免許は取ります。」と最後に言った。裁判長は、運転免許を取ることを考え直すように言われた。執行猶予も付いた。初犯である事と任意保険に入っている事で、執行猶予の判決だった!免許処分もたったの一年だけ。車で人の命を奪っても、この様な異様に軽い処分や刑罰では、抑止が効かず、なかなか交通事故をゼロにできないので、免許処分と刑罰の改正が必要だ!民事裁判では、大切な息子の命の金額を大幅に値切られた、値切る事はつつしんでもらいたい!法律と裁判官の判決が遺族にとって最も大きい二次被害の根源だ!早急に見直されるべきである!法律も裁判官も被害者や遺族のためにあるべきだ。
私は、二つの団体に寄付し、『交通死亡事故0を目指して』という横断幕や懸垂幕を三つの市や町に寄付した。そして、事故現場の安全祈願をした。啓至に捧げた『星になった啓至』という本を出版した。遺族の励ましと不思議なことに啓至からシグナルがあるから、何とかやってこれた。事故現場の家の人からは、3年後にお供え物をしないように言われた。その半年後にお花もお供えしないように言われた。悲しく、寂しいけど、私達は従うしかなかった。
昨年、愛媛の97歳の母を亡くした1週間後に、私は体調が悪くなり即入院、手術した。1ヶ月間の入院。入院中も啓至からのシグナルはあった!啓至は、いつも私のそばにいる。退院して、私の気持ちが変わった!何気ない日々が私に幸せを教えてくれた。啓至を亡くした時にわかっていたはずなのに…。今は、毎日、啓至の写真を撫でて、「いっぱいいっぱいありがとう。ごめんね。もっとしてあげられることがあったのに。お母さんは幸せだった。」と語りかけて、お線香をつけている。そして、2人で交通死亡事故がなくなるように祈っている。
福岡にも自助グループが出来て1年になる。私達夫婦も少しお手伝いした。続けていきたいと思う。また、仲間と会えると思うと、日々の生活にはりが出来ます!スタッフの皆さんが心配りされていて、いつも感謝している。
まだ今だに泣いている。夜も眠れない。でも、笑顔が増えてきた。長男にも感謝している。啓至が私を迎えに帰って来るまで。主人が調べてきて私にこう言った。「加害者に対するベストリベンジは、リブウェルする事。」と。西洋では、こう言うそうで。私達夫婦は、この言葉に今救われている。気持ちがお互いに軽くなった!主人は、心優しい人で、二人の息子を生み育てる時も夫婦仲良く生活していた。本当に良き夫で、良き父親です。心から感謝している。
これは余談。啓至は23歳のままですが、生きていれば28歳。野球の大谷選手と同じ年齢なのです。ドーム球場でアルバイトしていた啓至は、野球が大好き。テニスも好き。白バイ隊員になる夢の途中。野球がある時は、3人で試合を見ている。また、ある書道の先生に名前をみて頂いたところ、啓至の至には『私はここにいるよ』という意味もあるそうだ。とても嬉しく思った。