犯罪被害者に寄り添い支える 公益社団法人 全国被害者支援ネットワーク

全国被害者支援ネットワークは、全国48の加盟団体と連携・協力しながら
犯罪被害に遭われた方々へ支援活動を行なっています。

犯罪被害者の声 「私にとっての支援センター」~カウンセリングは聴いてもらうことだった~

「私にとっての支援センター」~カウンセリングは聴いてもらうことだった~

公益社団法人おうみ犯罪被害者支援センター
M・K
「犯罪被害者の声 第13集より」

2007年5月5日。笑顔で遊園地に出かけた娘さんは、ジェットコースターの事故にあいました。
あの日から10年たった2017年、当時のこと、支援センターに対する思いを話していただきました。

【事故当日のことをお聞かせください】
 警察からは一切、連絡は来なかったです。17時半のニュースで、「20歳くらいの女の子が事故に遭った」と見ました。長女が携帯に電話をしたら、友達が出て娘が事故にあったと分かった。警察に電話すると、「確認に来てください」とだけ言われ、何もわからず長男と3人で向かい、警察署に到着したのが20時半。
 署内の様子は覚えてないです。違う部屋に通され、鼻と口だけの写真を見せてもらって、すぐ娘と分かった。遺体安置所で対面したときも、白い包帯でまかれていて、口と鼻しか見えない状態でした。

【それからはどう過ごされましたか】
 翌6日、病院で司法解剖となりました。終わっても、説明だけで会わせてもらえない。地元まで一緒に霊柩車で帰りましたけど、その後も顔も見せてもらえなかった。葬祭の人が見ない方がいい、きれいな顔の思い出だけ持っていて欲しいと言われました。
 お通夜や葬儀などで、私は普通に明るく話していたのですが、少しハイになっていたのですね。後で、それに嫌悪感を覚えました。そこからは、何をしても涙が出てくる。掃除機をかけていても何をしていても、常に涙が出てくるのです。声を出して泣くのは車の中かお風呂。お仏壇に向かって、一人ぼっちの時だけは声をあげて泣いていた。自分の思いを口から出せず、涙しか出せなかった。
 1年ほどたって、娘のことを長女と話ができるようになりました。長女がよく言っていたのが、「娘がいると、その場が明るくなる」ということでした。7月生まれでひまわりみたいな娘だね、と。長女とは、好きなグループとか音楽で話があっていました。長男は、仕事から帰ってきたら、自分の部屋にあがりこんでしまうのでそういう話はできませんでした。ショックは長男も大きく、眠れなかったみたいで、仕事に出かけても、途中で帰ってくることもありました。

【どのような娘さんでしたか】
 とにかく明るい娘で、友達も多かった。でも、楽しみにしていた成人式もできなかった。花嫁衣裳を着せてやりたかったし、子どもが生まれたらどうだろうと思っていた。辛かったです。
 実は私は主人を交通事故で亡くしています。平成元年、夜の10時半頃、飲酒運転で無灯火の車にはねられ亡くなりました。娘が2歳になってすぐのことです。主人は39歳でした。
 娘が亡くなる2週間ほど前に言ったことがあります。「友達の中に、父親が亡くなって寂しくていじめられた子がいる。でも、私は全然、寂しくなんかない。いじめられたこともない」と。それを聞いたときは、胸がつまりました。私は娘に対して、父親がいないということで負い目があった。運動会や公園で、他の子どもが父親に遊んでもらっている姿をじっと見ていた娘を知っています。そう言ってくれたときは、嬉しかった。
 私の子どもは4人とも明るい。それが私の誇りです。
 主人と娘の写真は、お仏間とリビングにあるので、すぐそこにいます。台所のカウンターにも写真が置いてあり、常に見ています。台所にいても、声をかけたり、トイレのドアも開けっ放しにして話しかけている。常に一緒にいます。

【支援センターのサポートとは】
 初めは、精神科の医師のカウンセリングに行って、そこで、ほとんど泣かせてもらうだけでした。部屋から出た後でセンターの方と話をして、また、泣かせてもらった。思い出話や家の今の状態などをただ話す。それを「うん、うん」と聞いてもらうだけで、気持ちが楽になった。帰りはドッと疲れるのですが、でも家へ帰った時にその疲れが気持ちよかった。
 それまでは、カウンセリングが何か分からなかった。私は落ち込んでいるだけ。仏壇に向かって「早く連れていって」と言っていました。こんなことは他の子どもに聞かせられない。私は家から出ず、仏壇の前にずっと座っていました。忌明けまでは家にいたのですが、その後は家にいるのがつらくなり、今度は家から出たくて仕方なくなった。
 カウンセリングは、月1、2回が3か月続きました。それが終わって2か月後、5か月目に仕事に戻れました。自分の中で、カウンセリングとは「ああしなさい、こうしなさい」と言われることだと思っていました。実際は話をじっくり聞いて、常に「焦らなくていい。本当に会社に行きたいなと思うときまで、行かなくていい」と、先生は言ってくださいました。

【他にどんなサポートがありましたか】
 1年半くらいしてから裁判が始まりました。その中で、遊園地が違うアトラクションのために、絶対に必要な点検さえしていなかった、と分かった。その前に乗った方が、ちょっと変な音がしていたと言っていたらしい。そのことを報告もせず、調べることもしなかった。今でも許せないという思いでいる。
 裁判の傍聴に、毎回、付き添いしてもらいました。娘が亡くなった後に、結婚し別の場所に住んでいた長女と一緒に行きました。裁判所に行くこと自体が初めてで、場所も分からなかった。暑い時期に、冷たく凍らせたお茶やタオルをいつも用意してくれた。その心遣いが思いもかけないことで、嬉しかったです。  結審の日、人身事故があって電車が止まった。すると、センターの2人が車掌に理由を告げて降ろしてくるよう、掛け合ってくれたんです。おかげで私たちだけ降りることができました。足の悪い私に寄り添い、他の電車に乗り換えて行く方法も教えてくださって心強かったです。

【支援センターに望むことは】
 癒される場所、気持ちが軽くなる場所。いろんなことを聞いてくれる。たとえば、ペットの話をしたり、共通の話題があったり、事件の話以外もしました。
 自分から助けてくださいとはなかなか言えない。声をかけてくださるほうが、入っていきやすい。初めは出しにくい悩みも回数を重ねることで出しやすくなる。最後の悩みまで出せるようになるのは、なかなか難しい。最初から出せる人は少ないと思います。
 誰でも話していると、カチンと来るときはある。お互い様で、向こうもカチンと来ることもあるでしょう。でもセンターの方は全部、聞いてくれた。最初は「あんたら経験がないから分からんやろ。私の気持ちなんて分からへんわ」という垣根がありました。その垣根がなくなるまで、時間と回数が必要でした。
 自分で乗り越える力を出せるようにサポートというか、促していただく。そういう人が支援の方たちだと思います。

【裁判後のセンターとの付き合いは】
 今も命日の前にお参りに来てくださいます。その合間にも時々、電話をくださったり、手紙が来たりもします。話を少しするだけで、気が楽になり、嬉しくなります。

【最後に娘さんへの思いを教えてください】
 涙の数は減りましたが、事故のことは、絶対忘れられない。でも、今は、他の子どもたちとも思い出話や、こんな時あの子ならどうするだろうという話もできるようになりました。

〇インタビューを終えて  遊園地が勝手に慰霊碑を造り、社長がテレビで「許可をいただきました」と発言したという話もお聞きしました。
 被害者が何度も何度も傷つけられるという現実に、支援センターの支援は終わらないと思いを強くしました。
 (本稿は、Kさんへのインタビュー記事をまとめたものです)