あの日
公益社団法人被害者支援都民センター
M・O
「犯罪被害者の声第12集より」
平成28年 1 月15日、長男が亡くなりました。軽井沢町で起きたバス転落事故で被害にあった大学生13人のうちの一人でした。
あの日、朝 6 時前に起き、いつものようにテレビをつけながら下の子二人のお弁当を作っていた時に、速報として事故の一報が流れました。大きな事故で、多くの被害者が出ているとのことでした。情報が錯綜していて、バスの出発地と到着時の場所がニュースによって違っていたので、「息子が乗ったのは原宿発だったけど、新宿発とさっきのニュースで言ったから違うよね?」「斑尾高原行きのはずだけど、あのニュースでは北志賀行きと言っていたから違うよね?」と次男、娘と話しながら、動悸が激しくなり、だんだんお弁当を作る手が震えてきました。息子の携帯に何度かラインをしても既読にならず、 7 時頃に斑尾高原に着く予定なら今頃は熟睡してるんだよと話しながらも不安で電話もかけました。
下の子二人が学校へ行き、布団カバーを洗濯しようとはがしたその時、私の携帯電話がなりました。あ〜ようやく起きて電話をかけてくれたんだと取ったところ、それは軽井沢警察の方からの電話でした。「バスの事故で息子さんが亡くなりました」と突然言われたのです。「亡くなった? 怪我ではなくて、もう生きていないんですか?」と何度も同じような質問をし、話を聞きながら、でも涙も出ず、思ったより冷静な私を、違う自分が見ているようでした。
十時半頃、軽井沢署に着いた時には玄関前にはすでに多くの報道陣がいました。その中をすり抜けて中に入ると、すぐに息子に会わせて貰えると思っていたのに様々な事務手続き。控え室の和室に通されると、すでに他の家族達が待っていましたが、お互いに話すこともなく、ただただ待つだけ。本人に会うこともなく、全てのことが亡くなったのを前提に進められていきます。事故の説明、自宅へ連れて帰る霊柩車の手配。被害者が多く検視に時間がかかり、「対面出来ます」と言われたのが15時すぎ。近くの体育館に移動して並んだ棺の中、シートにくるまれ頬にテープが貼られた息子の遺体にようやく対面出来ました。
痛々しい顔の傷、痛かったね、痛かったねと撫でてやっても動かない。いつもの少し口の空いた寝顔のまま。熟睡していて痛みさえ感じなかったのであったならまだ良かったのかとも思いましたが、180㎝ の長身には小さすぎる棺に窮屈そうに入れられていたことが、一層悲しみを増加させました。次々と体育館に運ばれてくる棺。次々と到着する子供を亡くした家族達。現実なのか夢なのかわからない感覚で、自分の中から感情が消えてしまったかのようでした。
次男と娘には傷のついた顔を見せたくない想いから、そのまま都内の斎場に運び、エンバーミングの処置をしてもらうことにしました。主人と自宅に戻ったのが22時半。家の近くまでタクシーで近づくと、何人もの報道陣。無言ですり抜けて自宅に入ってもインターフォンを鳴らされる。24時頃にようやく誰もいなくなりましたが、その夜は生まれて初めて一睡も出来ませんでした。色々頭に浮かぶことはあっても涙は出ず、人は本当に悲しみが強すぎると涙が出ないのだということを痛感しました。
あの日から 1 年半が経ち、 7 月16日は息子が亡くなってから二回目の誕生日、21歳を迎えているはずでした。買い物へ行けば、好きだった食べ物を見ては思い出し、同じ位の年頃の子のバイト姿に息子の姿を重ね、仲間と夕食の買い出しに来ている子達を見れば、このような日常があったはずなのにと感じてしまう。毎日の生活の中で思い出さない日はないというより、思い出さない時間はない位に常に頭から離れない状態です。
あの日のたった一瞬の事故は、希望に満ち溢れて充実した毎日を送っていた大学生13人の未来を断ち、家族の日常を一変させ、まわりの多くの友人知人にも様々な影響を及ぼしました。
自宅のすぐ近くのお寺にお墓を建て、しょっちゅうお参りしても、朝昼晩と仏壇にお線香を供えて手を合わせても、町の雑踏の中に紛れてはいないか、せめて見知らぬ国で生活していてくれないか、天国にいるなら好きな事をやって楽しんでいるか、あちこち飛びまわって友人の集まりに参加したりしているか…と色々と思い巡らす毎日。子供を亡くした親の、このような想いはこれからも一生続くのだと思います。