娘を殺されて 命ある限り娘の無念を訴える
公益社団法人千葉犯罪被害者支援センター
M・O
「犯罪被害者の声第9集より」
〔警察からの電話〕
平成21年10月23日 金曜日
その日は穏やかな秋晴れの日だった。夫は庭で植木の手入れをしており、私は仕事に行く前に家事を済ませようと、慌ただしく動き回っていました。午前9時頃だったでしょうか家の電話が鳴り、受話器をとると、「荻野友花里さんの実家ですか。」と最初に娘の名前を言われ、矢継ぎ早にこちらの住所と名前、娘の当時住んでいたアパートの所在等を確認後、「松戸警察の○○です。荻野友花里さんの自宅が火事で友花里さんが焼け死にました。遺体の確認に来て下さい。」あまりに唐突な電話の内容に頭がついていかず、(この人一体何を言ってるの?友花里が死んだ、それも火事で焼死、そんな事ある訳ない、あるはず無い。全身の力が抜けていく中、何が何だかわからないまま)
きっとこれイタズラ電話に違いないわと、思い直し、相手の電話番号を聞き、おり返し電話をすることにしました。
するとやはり「松戸警察の○○です。」と、同じ方が出られ、もう一度娘の事を話されました。何度聞いても何を聞いても全く信じる事が出来ません。外にいた夫に「友花里が焼け死んだんだって。」と、言うのが精一杯。「何言うとんのや!」と、叫ぶように私の所に来ました。私達のやりとりを警察の方が聞かれていて、私では埒らちがあかないので、「他にどなたかいらっしゃるなら代わって下さい。」と、言われたので夫にかわりました。「遺体の確認に今すぐ来て欲しい。」という事で、急いで千葉まで向かうことになりました。とても信じることが出来ない。何かの間違いにちがいない、それを確かめに行く。そんな思いで夫を駅まで送りました。私も一緒に行きたかったのですが、わが家には障害のある友花里の兄がいるので私は同行できませんでした。彼を一人にすることは出来ず、夫からの連絡を待つことにしました。
一人になると不安に押しつぶされそうで、娘の携帯に何度も何度もかけ続けましたが、「電源が入っていません。」と、メッセージが流れるだけで、つながる事は一度もありませんでした。これはきっと夢、悪夢なんだと自分に言いきかせていました。2日前の21日に娘からのメールが来ていました。なんで友花里が死ぬのよ、あの元気な子が死ぬはずない。そやけど……そういえば後のメールは空メールやった。
あんな事今まで一度もなかったなぁー。嘘、うそ!あの子が絶対死ぬわけない!だんだん大きくなってくる不安でパニックに陥いっていました。
〔事件について〕
夕方やっと私の携帯に連絡がありました。夫からではなく義弟からでした。「写真を見たら友花里に間違いない。明日朝一番にこちらに来て欲しい。荻野さん(夫)は今、とても話せる状態じゃない。」と。
(仙台に出張中の義弟と関東にいる弟には松戸警察に行ってくれるように連絡をしていました。)
その夜は寝ることも出来ず、ただ横になって朝が来るのを待ちました。新幹線の中で、何で火事になったんだろう、なんで焼け死ぬの、眠りこけていて気がつかなかったのか。無事ではないと連絡は受けていたが、娘の顔を見るまでは誰に何を言われても生きている事しか考えることが出来ませんでした。
松戸に着いて警察から「火事ではなくて殺人事件だ。」と、説明を受けたのですが、その時のことはよく覚えていません。殺人事件という言葉の意味は解っても、それが娘とどう結びつくのか混乱していたように思います。
「娘に会わせて下さい。」と、強く言ったと思いますが、「司法解剖が終わるまでは会えません。」と言われました。会うために来たのに!
一目だけでも娘の顔が見たい。一刻も早く。
どのような状況で娘が殺されたのかは全くわかりませんでした。夫は自分の感情を抑えきれず、どなりちらすし、泣いてばかり。
平成21年10月21日、娘は殺害されその後、体に火を放たれ、部屋もろとも焼かれました。
私達家族にとって娘の存在はとても大きな力となっていました。特に自立が難しい自閉症という発達障害がある息子にとっては、私達親がなきあとは娘に支えてもらう、娘がいるというだけで安心して生活が出来ていました。平成18年4月、大きな夢を抱いて大学に入学。充実した学生生活を送り、後5ケ月で卒業という時に自宅アパートで無残な最期を遂げました。殺人犯が部屋で待ち伏せしているなんて誰が想像できたでしょうか。前日は友人宅に泊まり21日は授業の準備の為一度帰宅をし学校に行く予定だったのでしょう。
包丁とストッキングを手元に置き、娘が帰るや否や自分のやりたい放題。包丁で脅かされ続け、とてつもない恐怖の中で全てを奪われました。裸にされ、手足を縛られ、女性として、人としての尊厳も傷つけられ、金品を取られ、キャッシュカードの番号を言わされ挙句の果てに、三度も深く鋭く胸を刺され殺されました。司法解剖によると一撃目でこと切れていたと。胸骨は真っ二つに切られていました。娘は助けを求め続けたに違いありません。「お母さん、お父さん、お兄ちゃん!」私は自分が生きている限り犯人を許しません。
娘を殺した犯人は、強盗・強姦・強盗致傷等で、懲役7年の刑を2回、そして娘の事件をおこした時は、9月1日に2度目の刑を終え満期出所してから1ケ月半程でした。逮捕されるまでの2ケ月半の間に、〈住居侵しん入、強盗強姦強盗致傷、強盗強姦未遂、監禁、窃盗、強盗殺人建造物侵入・現住建造物放火、死体損壊〉等々たて続けに凶悪犯罪を重ねていました。根っからの悪人です。
〔裁判員裁判の意義〕
娘の事件は殺されてから1年8ケ月後にやっと裁判員裁判で行われました。私と夫は被害者参加制度を利用して、物言えぬ娘に代わり、共に臨みました。平成23年6月8日から始まった裁判は、1か月をかけ、本当に丁寧に、しっかりと審議され、厳しく的確な裁判でした。
夫も私も意見陳述をし、被告人質問もしました。被害者参加をしたことで、娘や私達の無念さが、裁判官や裁判員の皆様に伝わったと思います。判決の日、裁判長から「主文は後回し」と発せられた時には、「死刑」だ!この国には間違いなく正義はある。と、確信しました。
裁判員裁判が導入された意義があったと心底思いました。
公判中に「死刑」の判決が出たら従うと何度も言っていた被告人は即刻控訴してきました。
一審の裁判の後2年待たされ、東京高裁での公判は、これといった審議もされず、たった1回で終わり、4ケ月後に判決がありました。
その時、被告人は出廷もしませんでした。
長い間待たせた挙句に「死刑」は破棄「無期懲役」にする。村瀬裁判長が言ったその瞬間、私も夫も「なぜそんな事になるのか」頭がまっ白になり、悔しさと無念と憤りでいっぱいになり、判決理由など頭に入ってきませんでした。何度も何度も娘の最後を思うと、このままでは終わらせない。何も訴える事が出来ない娘に代わって私が娘の思いの何分の一でもいいから正義を、人の道を強く訴えないといけない。検察に上告を願い、後日それが聞き入れられ、最高裁に判断を委ねました。
弁論が開かれる事を信じ、一日千秋の思いで待っていました。今年の2月4日に、上告棄却の知らせが被害者弁護士を通してありました。
高裁の判決支持と決定した。と、その理由には呆れてしまう。殺害直前の経緯や動機がどうであったか問われるところで、この点が明らかになっていない。死刑には常に慎重さと公平性が求められる。犯行態様が執拗で冷酷非情なものであったとしても第1審の死刑の判断は合理的なものとは言い難いところである。
私なりに平たい日本語で言うと、何の非もない抵抗も出来ない娘を残虐に殺した犯人に対して、殺したのには何か理由があるだろうからそれがわからないと死刑にはできない。殺したのはたった一人ではないか。それも成りゆきで殺しただけじゃないか。
こんな風に高裁や最高裁の裁判官は言っているのです。人の命を何だと思っているのか。被害者の命は殺人犯の命よりそんなに軽いのか。
そんな判決しか出せない高裁や最高裁に被害者の命の貴さは、到底わかるはずもない。
凶悪な犯人の人権を守ってまた被害者が出たら誰が責任を取るのか。
無責任な判決は出さないで下さい。法律家の積み重ねてきた判決理由では一般人には通用しません。裁判員裁判の意義・役割を考えるなら一審の裁判員裁判の判決をもっと重く、真摯に受け止めるべきです。
被害者の無念は裁判でしか果たせないのをどれだけわかっているのでしょうか。法律や裁判は決して悪い事をした者に優しくあってはならないのです。全てを無しにされた被害者がどれほど無念で悔しいか。
〔支援センターとのつながり〕
センターの方と初めてお会いしたのは2度目に松戸に行った時でした。12月7日の四十九日を前に友花里の荷物整理をしに行った時、警察本部の被害者支援室の方と一緒に紹介を受けました。「困った時には何でも御相談下さい。」と、パンフレットも頂きました。
自分達のおかれている状況が被害者遺族であることすらまだ実感がありませんでした。温厚でどんなことでも受容して下さる優しさを感じたのは確かでした。何もかもわからない事だらけの私達にとって、どんな質問にも丁寧に、わかり易く説明して下さり、対処方法も一緒に考えて頂きました。少しでも私達の気持ちが安らぐように常にお心づかいをして下さるのです。誰にも言えなかった事を私も夫もそれぞれが自分の思いを打ち明けることができました。千葉と兵庫の距離は随分遠いと感じていますが、心のつながりは日に日に太くて短くなってきたような気がします。
いつも穏やかに接して頂きどれ程安寧な日々が送れたことか。電話をかけてきて下さるタイミングの良さには本当に驚きました。困っている時に必ずと言っていい程、センターから様子伺いをして下さるのです。全て解決は出来ずとも話をするだけで、また力がわいてきました。一般人には普段あまりかかわりのない、経験もない裁判のこと、弁護士の事、法律的な手続き等、何から何まで教えて頂き、時として毅然とした態度で、検察官や弁護士にも被害者側の考えや意見を述べて下さいました。不慣れな東京や千葉の地に足を運ぶ度、宿の手配から付添いまでいつも必ず私達と共にいて下さる心強い味方です。事件から6年目になろうとしてますが、今日まで何とか乗り切ってこれたのは、センターの御支援があったからこそです。裁判は全て終わり、残念ながら納得のいく結果ではありませんでしたが、センターとの結びつきが心のより処どころとなって、いつまでも甘えています。
犯罪被害者の遺族にとって、生きている限り、悔しさ・無念さ・自責の念・苦しみの中、日々生活を送らなければならない事は、これからも続いていきます。年月が経てば、その分更に深く大きなものになってくるのです。
被害者側にとってはセンターの御支援はなくてはならない存在なのです。