今、想うこと。
公益社団法人被害者サポートセンターあいち
自助グループ「絆」
K・O
「犯罪被害者の声 第17集」より
私は宗教家でも、哲学者でも、思想家でもありません。なのに、あの日以来毎日、生きるとか死ぬとか神とか運命とか寿命とかそんな事ばかり考えています。
息子が大学に入学してすぐコロナ禍で入学式は延期に、授業はリモートになりせっかく借りた部屋の家賃を払いながら友人達は実家に帰ったそうです。そんな中息子は一人残り、バイトを探しながら大学近くに借りたマンションで一人暮らしを続けていました。それが一年続き3月末に少し緩んだコロナ政策のおかげで一年遅れの入学式がありました。やっと同じ大学の他の生徒と顔を合わせ友達が作れる、サークルや部活動ができる、と夢に見た大学生活の始まりを嬉しく思ったことでしょう。
その2週間後、約1ヶ月ぶりに会いに行く約束を週末にしていた水曜日、救急病院からの突然の電話に「Y は私の息子ですが。もしかしてコロナにでも罹りましたか?」と呑気に返事をしていました。しかしそれは地獄の日々の始まりの電話でした。
警察で久しぶりに会った我が子は、宇宙飛行士になりたいと言って流行りのゲームもやらず大切にしていた目を自力で開けることもできず、歯も耳も鼻も詰められた綿は鮮血で真赤でした。これはドラマか映画か・・・母と私が何度呼んでも答えません。この世でたった一人、私を「母ちゃん」と呼ぶ子供はあっけ無く、他人の手によって全てを奪われたのでした。その表情はまだ本人自身、何が起こったか分かっていないようでした。どうしてウチの子なの?なんでこんな事になったの?全く受け入れる事も理解する事もできませんでした。が、警察には翌朝には別の場所へ移すように言われたり葬儀場を探したりお友達へ連絡したり悲しみに浸る暇もありません。やらなければならない事に追われる中、ネットやマスコミに本当ではない情報が流れ出していました。息子と共に亡くなったH 君のお父さんや息子の友人が連絡してくれたりして訂正してもらいました。息子達は後部座席でもきちんとシートベルトをしていたのに。本当の事を見た訳でも聞いた訳でもない想像や臆測での書き込みや、心無い言葉による「二次被害」はその後も色々とあり苦しめられました。
加害者は事故後入院していたので、私達や息子の友人がどんなに悲しいお別れをしたのか知らないでしょう。20歳前後の体の大きな男の子が声を上げて泣いていました。遠くから新幹線に乗ってどんな思いでここまで来てくれたのか・・・ただただその想いに感謝しかありませんでした。
約一ヶ月振りに我が家に帰った息子はどうしてこんな箱の中にいるの?泣くしかない毎日の中で漠然と「息子が天国に行けるように親として私がやれる事はしてあげないと」の気持ちだけで毎週のように来て下さるお寺さんへの対応やいただいたお花の世話をしました。でも心のどこかで、やれる事が終わったら息子のところへ行きたいなぁ。と思っていました。それまでは使える物は何でも使って息子に起こった全てをこの目で確認してそれから会いに行くんだ。どんなに辛くても悲惨でも「母ちゃん頑張ったよ」と言えるように、そこだけは逃げないから。そう決めていました。
裁判員裁判は始まるまで2年近くかかりました。「故意か過失か」が争点でした。それまで県警のカウンセリングを受け、被害者サポートセンターあいちの方々より手続きや流れ等の説明をしていただき、当日はその地域のサポートセンターの方に付き添いをお願いし、弁護士さん、H 君の両親・弁護士さんもいらっしゃると分かっていても眠れない日々が続きました。今まで加害者に会いたくなくて、謝罪やお参りをお断りしてきましたが、とうとう会わなければなりませんでした。仮にも同じ学校の友達であったと思うととても複雑でした。そして今はドライブレコーダーや防犯カメラがあります。トラウマやフラッシュバックになる事は予想されましたがこれを見ずに真実は知れないと心に決めて当事者席に座っていました。弁護士さんやH 君のご両親がいて下さったのでまだ良かったのですが本当に辛かった。まばたきしたら見逃してしまう程あっと言う間で一瞬の出来事でした。「あんな運転、一人で乗っている時にやれよ」と怒りが沸きました。あんな一人よがりの自分勝手な行動で周りの全ての人が不幸にさせられたのです。息子は事故の後、他人の口を借りて「まだ死にたくなかった」「まだやりたい事があった」「人って簡単に死ぬんだな」と言いました。信じても信じなくてもそれらの言葉は本心だと思います。どんな思いであの数秒間座っていたのか。何のつもりで加害者はアクセルを踏んだのか。助かった助手席のK 君は証人尋問で立派に答えてくれました。弁護士がついている訳でもなく毎回遠くから傍聴に来て下さっていたお父様に付き添われて。K 君だって友人2人も亡くして現場の一部始終を見ているのだから辛いでしょうが、そんな事は一言も私に言いませんでした。
被害者心情意見陳述で私は言いたい事がありすぎてまとまらず半ページ程読めただけでしたがH 君のお父様は両弁護士さんが感心するほど思いが詰まった内容で私も涙が止まりませんでした。
私はずっと心のどこかで「加害者が息子でなくて良かった」と思っていました。が、真実を知って「息子もH 君もK 君も絶対あんな運転しない。殺されたんだ」と思いました。“車が好き”ただそれだけで集まって乗り合わせた。それだけなのに。バカがつくほど慎重で丁寧な運転をする子だったのに。まさか他人の無茶な運転で夢も希望も未来も奪われるなんて。代わってやりたい。何度思った事でしょう。
あの日以来日常のどの景色にもつい先日の、又20年前の幼い息子が重なって泣けます。子育てに正解は無いとは言っても、反省や後悔しない日はありません。写真も悲しむために撮ったのではないのに、とまだ見る事ができません。事故の事が言えなくて同窓会の役員も年賀状もやめました。母にとってもたった一人の孫でしたので話題になるのが嫌で全てのお誘いを断っています。誰にも言えない中、県警のカウンセラーの方に話を聞いてもらったりその時々の感情や体調についてアドバイスをいただいた時間は唯一楽しみでもありました。またサポートセンターでは安心して関われるメンバーでしたので色々な助言や経験談に救われました。
毎月事故現場へ二人分の花を供えに行くと、神も仏も信じない母が息子に「母ちゃんが死なないように見守ってーな。」と手を合わせているのです。今でもふと、あの笑顔で「母ちゃんただいま。」と帰って来る気がします。
コロナが落ちついて以前の世の中に戻ったとしても私達はもう、コロナ前には戻れません。心に刺さった刃は目に見えないからこそ探すことも抜く事もできないのです。
事故を一つでも減らす為日々激務をこなしながらも遠くから温かい目で私を見守って下さった交通管制課の皆様、息子と楽しく過ごしてくれたお友達、H 君のご両親他お心をお寄せ下さった多くの方々にこの場を貸りてお礼申し上げます。息子と共にこの先も過ごしていきたいと思います。有難うございました。