事件への思いと「さくらの会」に寄せて

社団法人熊本犯罪被害者支援センター 自助グループ「さくらの会」

米 村 州 弘

 私の二女、智紗都が事件に遭ってこの世界からいなくなったのは、  2003年9月26日です。20歳の成人式を迎える前の短い生涯でした。本当に智紗都にとって短かすぎて悔いの残る一生だったと思います。
 しかし、8月からアパートで一人暮らしを始め、ほんの数ヶ月間でしたが、楽しい時間を過ごせたと思っています。なぜなら、私たち家族や友人たちに「今が一番楽しい!」「幸せ!」といつも言っていたからです。
 智紗都を絞殺した加害者は15年という懲役刑を受けましたが、私たち夫婦はそれだけでは納得できず、少しでも加害者が幸せにならぬようにとの思いで民事裁判を起こしました。約1億円という額を勝ち取ることができましたが、自己破産した加害者にとって何の役にも立たないのは分っていました。しかし、それでも加害者を許すことができなかったのです。民事裁判での勝訴は、一生加害者を拘束するための勝訴でした。  日々、一日一日と美しくなっていく娘、その娘の変わり果てた姿に会うことができたのは10月10日でした。加害者は娘を絞殺した後、公共の交通機関等を使い、奈良の金剛山の山頂付近に埋めたのです。生前の美しい顔とは想像もつかない程変わり果てた智紗都の顔が5年近く経った今でも脳裏に残り私を苦しめます。家の中の至る所に元気で可愛かった時の娘の写真を飾っていますが、ふとした時にあの無惨な娘の顔が浮かんでくるのです。娘を殺したのは加害者、一番悪いのは加害者だと頭の中では理解しているにも拘わらず、私は、私自身が最愛の娘を殺したような思いにずっと苦しめられています。
 加害者と娘を結びつけたのは、私が高校の入学祝いにと買ってあげたパソコンです。インターネットのメールサイトで知り合った加害者を当時、そのような人間とは知らずに尊敬し、進路や人生について相談していたのです。智紗都の未来のために少しでも役に立つようにと思い買ってあげたパソコンが、智紗都の命を奪ったのです。あの時、パソコンを買っていな かったら、あの時アパートを借りてあげなければ・・・・・。その後悔の思いは事件後、時間が経つにつれて些細な所まで及ぶようになっていきました。そして、それは亡くなった娘の事だけにとどまらず、妻に対して、また、遺された長女、三女に対してもどんどん膨らんでいき、そして最後には自分自身の存在に対しても向かって行きました。家族のため、娘のためと思い一生懸命に生きてきた自分の人生を否定するような思いになっていったのです。
 事件を境にして、自分の人生が180度変わったような気がします。しかし、遺された家族のため、それではいけないと思い、前向きに歩もうとするのですが、なかなか以前のようにはいきません。何故、智紗都なのだ?何故、私の家族なのだ?何故?何故?と否定的な考えしか浮かんでこないのです。
 死に関する本や、誰か死ぬ映画やドラマをよく見るようになり、自分をいつも悲しみの底に置くことしかできなくなりました。また、心の中のいろいろな思いや感情も事件当初なら妻や友人たちにも話すことができました。しかし、時が経つにつれて事件を話す相手や時間はだんだんと少なくなっていきました。 「妻の娘に対する気持ちは、私と一緒ではありません。妻は妻なりに智紗都の事件に向き合おうとしています。それから、遺された二人の娘たちとは怖くて智紗都の話をすることができません。二人の娘も非常につらい思いをしているのは分かるのですが、私自身が「智紗都を殺した」という思いが強いせいか話すことができません。友人たちにも会うたびに事件のことを話せなくなっていきました。
 そんな時「熊本犯罪被害者支援センター」の方々の尽力によって2008年1月より自助グループ「さくらの会」が発足しました。私自身「さくらの会」の立ち上げに少しでも係わることができた事は非常に幸せだったと思っています。
 犯罪被害者遺族にとって自分の心の中の想いを言葉に発して語るということは非常に大切なことだと思います。時間と共にいろいろな事件や事故は過去のものとなっていきますが、当事者にとっては時間は止まったままのような気がします。私自身も、いつでも事件後の感情や場面がフラッシュバックしてきて私を苦しめます。
 これから先、交通事故や殺人等の事件が無くなることはなく、私のような犯罪被害者遺族はずっと作られていくのです。事件や事故で大切な家族を奪われた遺族の方々、また不幸にもこれから犯罪の被害に巻き込まれてしまわれる人たちのために、少しでも心を癒し、力になっていける場所として「さくらの会」がいつまでも続くことを願っています。