私たちはこうして救われた

201402card公益社団法人被害者サポートセンターおかやま

加 藤 裕 司

 

 犯罪被害者の家族の思いをどう伝えるべきか悩みましたが、起きた事件、その時に私たちが何を感じていたのか、そして今何を思っているのか、ありのままに書き綴りました。

平成23年9月30日(金)

 こんなことが起きるなんて……まったく予感も予想も働かなかった。娘はいつも私と相前後して帰ってくるため、毎日習慣のように妻に、「みさくんは?」と尋ねることにしていた。「まだよ。 今`日はヨガ教室があるから遅いよ。」の返事に少しがっかりしながら着替えに寝室のある2階に上がったことを覚えている。
 その日は、仕事の関係で帰りが遅くなっていたのでとっくに娘は
帰っているものと思っていた。まさか、この時すでに娘が住田絃一
に殺されているなんて想像もできなかった。

10月1日(土)

 娘が何らかの事故か事件に巻き込まれたのじゃないかと思ったのは、土曜日の夕刻になっても帰ってこなかったからだ。どんなに帰りが遅くなっても、必ずメールか電話で返事をしてくる娘だったし、黙ったままで何の達絡もしないなんて考えられなかった。
 土曜日の夜7時過ぎに仕事から帰った私は妻と一緒に赤磐警察署に駆け込んだ。大の大人が行方不朋だなんて後でバツの悪い話になるかも知れないという思いは少しあったが、それよりも異常事態の感覚の方が強かった。
 ふと携帯電話の履歴検索ができれぱ居場所がわかるのではないかと気づき、その場でKDDIに事情を話し検索のお願いをした。ところが、KDDIは本人でなけれぱお応えできない、の一点張りで全くとりあわない。KDDIにかなりきつい罵声を浴びせていた私を警察署の方が気の毒に思ったらしく、本庁経由でKDDIに要請し電波の発生確認をしていただいた。結果としては、夕刻会社近辺から発信はあったものの、それ以隆は途絶えたままということだった。
 その後、行方不明の捜索のお願いし自宅に戻った。しかし、依然消息の知れない娘のことを考えると居ても立ってもいられず、娘が車で通っていただろう道を追いながら、ひよっとするとコンビニに車が置きっぱなしになっているかもしれないと思い、 一軒一軒立ち止まりながら娘と娘の車を追っていった。とうとう会社の駐車場にまで到達したが、会社の契約駐車場があちこちにあるため特定できずにその日は帰った。 一体何がどうなっているのか、さっぱりわけがわからない。

10月2日(日)

 翌朝、岡山西警察署から、娘の車を会社の駐車場で発見したとの電話が入った。昨晩すでに岡山西警察は娘の車を調べに会社の駐車場まで来られたらしく、見つからなかったので改めて早朝調査し発見したとのことだった。
 駐車場に駆け付けた私は、警察の現場検証に立ち会ったが、どうやら金曜日の晩には娘はこの駐車場までたどり着いていないことがわかった。車の中に乱れはー切なく、ヨガ教室の道具も置かれたままだったからだ。妻にも現場に駆け付けてもらい、その後娘の車を西署で預かってもらうと同時に、事情聴収のために妻と一緒に西署に伺うことにした。
 あれこれと娘の性格や行動を刑事さんに話している最中に、突然一枚の写真(動画をプリントアウトしたもの)を見せられ、「ここに一人の男性と一緒に歩いている女性はお嬢さんですか ? 」と尋ねられた。見ると、鮮明ではないものの明らかに娘の「みさ」であることは認識できた。「隣の男性は彼氏ですか?」の問いに対し、「いえ、違います。誰だかわかりません。」と答えた。この男がカギを握っているに違いないことはその時点でわかったが、 全く見当もつかない。
 その日は、警察の方々にお礼を言って帰宅した。一体だれなんだ、
どういう素性の人間が「みさ」と一緒に歩いているんだ・ ・ ・・と私たちの不安はますます広がっていった。
 しかし、 私たちが帰宅した後、会社から提供を受けたビデオは犯人らしき男が血を拭ったり、血痕を拭き取るためにモップやトイレットペーパーをもって往来している姿をとらえていた。その結果、翌日の月曜日には会社に出勤する社員全員に照合し、被疑者の特定ができていたようである。
 私たちは家に帰り、一体どうなっているんだろう、娘を達れだした人物はだれなんだろう、いくつもの不安に対しても答えをだすこともできず悶々としてその夜を過ごした。

10月3日(月)

すごく不安を抱えながらも家にいてもどうすることもできず、とりあえず仕事に行くことにした。しかし、仕事が手につかない。今頃「みさ」はどうしているんだろう、悪い奴に捕まってひどい目にあっていないだろうか、ご飯食べているんだろうか・ ・ ・ ・。 ひょつとしたら、悪い奴から逃げ出して野や山を血だらけになった裸足で駆け回っているんじゃないだろうか、お父さん助けてと叫ぴ声をあげているんじゃないだろうか・・・・。
 そう思うともうだめだ。涙が次から次へと溢れ出し、止めることができない。今にも助けに行きたい、でもどこへ行っていいかわからない。何をすることもできないもどかしさ、己の無力さに腹が立ち、次いで情けなさが襲ってくる。仕事どころの話ではない。仕事場の上司にお願いをし、仕事を中断して家に帰らせてもらった。帰る電車の中でも、助けてやれない無念さで涙が止まらない。

1O月4日(火)

 この日をどう過ごしたのかほとんど記憶にない。恐らく前日同様に半日で家に帰ったのではないだろうか。仕事を休んだかも知れない。確かこの日、DNA鑑定をしたいということで警察の方が来訪されたと思う。会社の倉庫内から血痕らしきものを発見し、その血が「みさ」のものであるかどうかを鑑定したいとのことだった。大急ぎで鑑定に回すとのことだつた。この日もよく眠れない。

10月5日(水)

 この日も出勤したが、やはり仕事にならない。 出てくるのはため息と涙だけ。周囲に変に思われてはいけないので一生懸命に我慢し続けてきたが、お昼頃になって涙をこらえ切れなくなった。上司にお願いし、その日もお昼で掃らせてもらうことにした。
 何か自分にできることはないのか?そう考えながら、かつての部下で、霊能カの強い女性がいたことを思いだし、彼女に相談してみよう、何か手がかりが発見できるかもしれない。何年ぷりかわからないが、携帯電話の名簿から彼女の電話番号を探し出し、つながるかどうか不安だったがかけてみることにした。
 コールが二度ほど鳴っていきなり、「部長?お久しぶり。」の声だった。何かを知っていたかのような返事に少々驚いたが、簡単に事情を話し途中下車して会うことになった。せっかくだから、妻も呼んで一緒に話をさせてもらうことにした。
 妻が所持していた写真をしぱらく見つめながら、彼女は不思議そうにこう言った。「おかしいなあ、普通だったらすぐに分かるんだけど、死者の場にもいないし、現世にもいない。」、「でも、お二人夫婦を見ていると悲しみのオーラは感じられない。多分、何か事情があって出てきにくいんじゃない?あまり騒ぎ立てず、いつもと同じ生活していた方がいいように思う。そのうち、照れくさそうに現れるんじゃないかしら ?」
 結局、その予測は残念ながら当たっていなかったが、彼女が言ってくれた「騒がず当たり前の生活をしない。」の言葉で私たち夫婦
はどれだけ救われたか。ここ何日も十分な睡眠も食事もとれず、もう少しこんな状態が続いたら夫婦のどちらかが倒れていたかもしれない。それが彼女の言葉に大いに勇気づけられたのだ。そうだ、いつもと同じでいいんだ。朝起きたら窓を開けて、いつものように部屋を片付け、掃除をし・・・・妻は妻でそう思い直し、もう一度仕切り直しをしようという気持ちになることができた。彼女は、後日予想が当たらなくて申し訳ないと詫びていたが、 決してそんなことはない。 むしろ感謝したいくらいだということを伝えた。

10月6日(木)

 この日は気分も爽快で、何か憑き物がとれたような軽い気持ちで仕事に向かうことができた。 そして一日が終わり、 いつも通りの時間に家に帰った。帰ると妻が「すぐ2階に上がって着替えて!8時過ぎに警察の方が来られるから。」と言うので慌てて着替え1階に降りてきた。ゆっくりする暇もなく警察の方が大勢見えられた。一体何だろうか、何か新しいことでも分かったのかくらいにしか思っていなかった。
 沈痛な面持ちで大男が数名居間に入ったため、ところ狭しの状況で何か異様な気配は感じることができた。刑事課長さんが目線を下に落としたまま、「とても悲しいお知らせをしなくてはなりません・・・。」と言われた瞬間、「その先を聞きたくない!」という思いが一瞬走ったがそのまま聞くことになった。
 正確にはどうお話されたかは覚えていない。ただ記憶しているのは、娘が元同僚の住田に会社の倉庫に誘き出され、所持していた刃物で殺害され、遺体は住田の車で大阪に持ち帰られ、契約で惜りた車庫の中でバラバラに解体され、ゴミとして捨てられ、ほんの一部の肉体しか残されていないという事実だった。
 その話を聞いた瞬間、何か頭の上から大きなもので押さえつけられ、息ができないくらいに胸が押しつぶされたような感じになった。妻のワーッと泣き崩れる姿を隣で感じた。キューッと喉を絞り上げられたような・・・声にならない嗚咽が涙とともに止まらなかった。誰にも声を掛けられない、声を発することもできない。ただ押し黙ったまま・・・無言のままの状態がいつまで続いていたかわからない。
 ふと正気に返り、このままではいけない、事実を伝えに来てくれた刑事さんたちに帰っていただかなくては、と気づき丁重にお礼を述べてお帰りいただいた。すぐに息子には電話で伝え後は、何か放心状態が続いていて2時間くらいは夫婦間でも話ができなかったように思う。
 なぜ?どうして娘がこんな目に遭わなけれぱならないんだ、本当に現実の話なのか、人間違いではないのか・・・・・、夢じゃないのか・・・・そんな思いがその後ずいぶん長く続いたように思う。家族全員が今まで生きてきた中で、 最も辛く探い悲しみに包まれた一日となった。


 事件が発生して1年4か月、ようやく裁判が始まることになった。その間、担当の検事さんが人事異動で替り、事件を引き継いだ検事のもと住田の供述により新たな事実が発覚することとなった。住田は、娘をただ殺害したというだけでなく、最初から強姦目的で誘い出し、強姦した後は口封じのため殺害し、証拠を隠減させるために遺体をバラバラにして捨てる計画だったことを知らされることになった。
 何の罪もない娘を己の欲を満たすためだけに強姦し、命だけは助けてと懇願する娘をあざ笑うかのように平然と殺害した。大阪に持ち帰った遺体を、首、手、足、胴体と順番にバラバラに解体し、肋骨は素手でポキン、ポキンと折って小さくしゴミステーションの他のゴミ袋に紛れ込ませ、削いだ肉片は大和川から投げ捨てたそうだ。
 それを検事さんから聞いたとき、もう絶対に許さない、たとえ神様や仏様が許すと言っても私たちは絶対に住田を許さない。何一つ悪いことをしていない娘に対し、どうしてそこまで酷いことができるのか、奴は人間ではない、犬畜生にも劣る悪鬼だ。
 娘には結婚を約束した彼氏がいた。これから二人で力を合わせて頭張っていこうと決心した矢先の事件、さぞや悔しかっただろうな、彼氏に申し訳ないという思いでいっぱいだったろうな、もっと生きていたかっただろうな・ ・ ・ ・そんな無念さを思うと、涙がとめどもなく溢れてくる。二人の間に生まれてくるはずだった孫も私たち夫婦は抱き上げることもできない。住田は娘の命だけでなく、彼氏の将来も私たちの小さな幸せも未来も奪つてしまったのだ。
 今回の裁判員裁判では、私たち家族と彼氏は娘のために闘わなければならない裁判だと心に誓っていた。そして私は、娘のために闘う父親として恥ずかしくない振る舞いと準備をしなくてはいけないと思った。仕事は週3日だけにし、残りの4日間はすべて裁判に関する情報集めに充てることにした。裁判、判事、検事、弁護士、裁判員のそれぞれの役割、裁判員裁判の仕組み、過去の重篤な事件の第1審における判決および主文とその時担当していた裁判長く平成19年以隆の)などあらゆるものを貧欲に吸収しようと読み漁った。また、被告人が精神情状鑑定を二度もおこなった関係から、精神鑑定から精神情状鑑定、精神疾患、神経疾患に関する病名と症状についてもかなり調べることになった。尊敬できる精神科医の先生の著書に関しては、それぞれ5冊程度は読んだように思う。被害者側だけの話でなく、加害者と加害者家族のその後についてもドキュメンタリーなど知りうる範囲で読んだ。ただ被害者家族だからといってヒステリツクに泣きわめくようなみっともない姿は娘に見せたくない、一体何が起きているのか、どんな不幸な結末になっているのか冷静に、平等な視点で見つめてみたいと思ったからだ。
 そして多くの被害者が泣かされてきた死刑判決を避けるための判断基準、俗にいう永山基準についてもじっくりと考えてみた。考えれぱ考えるほど、裁判長の自己保身の姿が浮き彫りになってくる。官僚主義といったヒエラルキーの社会が生み出した、一般市民の犠牲の上に成り立つご都合主義であることがよくわかる。裁判長はこうまでして死刑判決を避けたいのかと思うと情けなくなってくる。つまり、我々が必要以上に裁判官、裁判長を神格化しすぎてきた結果であり、じっくり観察してみると裁判長も人の子、その小心者の姿は論理の一貫性を欠き、誰が聞いても不可思議と思える主文に表れている。
 私たち被害者家族は、極めて優秀で正義感の強い検察官、良識のある裁判員の方々、永山基準に影響されなかった裁判官、栽判長のおかげで被告人に死刑判決を与えることができた。裁判員裁判制度が始まって平成25年5月21日でまる4年が経過したが、私たちが勝ち取った死刑判決は、裁判員裁判開始後16番目だった。殺人の数が1名での死刑判決は3番目。初犯で殺人が1名での死刑判決は裁判員裁判史上初めてのようである。しかも、死刑囚である住田が3月の終わりに自ら控訴を取り下げたため、判決後1か月余りで死刑が確定した。
 結果的に私は司法に絶望せずに済んだようだ。もし、無期懲役の判決が出ていたらどう思っただろうか。もし無期懲役の判決が出ていたならぱ、これ以上にどんなひどいことを重ねれば死刑になるというのか、これ以上のひどさとは一体何なのかを尋ねていただろう。裁判長に答えてもらいたいところだ。
 幸いなことに、私たちは多くの支援者に恵まれることができた。
 まずこの事件の最初に相談させていただいた赤磐警察署の署員の方々、赤磐署と見事に連携をとって最初から捜査に乗り出していただいた岡山西署の刑事さん、なかでも事件直後から毎日のように (多い日は三度も)自宅に来ていただいた担当の刑事さん、支援室の署員さん、最後の最後まで大和川に投げ捨てられた娘の遣体を2週間にわたって探し続けていただいた岡山県警本部の署員の方々には、いくら感謝しても感謝し足りない思いがある。あと一日捜査が遅れていたら娘の遺体は完全に捨てさられ、加害者を殺人罪で起訴することすら難しかったかもしれない。
 娘が働いていた会社の社員の方々にも感謝したい。まだ事件にもなっていない段階であるにもかかわらずビデオ提供していただいた娘の会社の課長さん(日曜日で休日出勤されていた、何という偶然と幸運なんだろう)と警察の捜査に協力いただいた会社の同僚、上司の皆様。
 犯罪被害者支援の会であるVSCO岡山のスタッフの皆様。被害者参加制度により被害者側にも国選弁護士がつけられるようになり、VSCO岡山の理事長でもある高原先生に弁護をお願いした。また、第1審判決後の賠償請求訴訟についても、引き受けていただくことになった。
 実際に裁判の経験もないことから、通常の裁判の仕組みから今回の裁判員裁判の有りようを詳細に説朋いただき、私たちは直接表に出ることなく弁護士同士でやりとりを重ねていただいた。良い悪いの判断がはっきりしていてとても理解がしやすかった。何度も何度も打ち合わせを重ね、裁判に臨むにあたっては遣り残したことはなかったと思う。実際の公判中には予想外の出来事も発生したが、咄嗟の判断で検事や栽判長にかけあうなどまさに武闘派の弁護士さんだった。
 また、VSCOの女性スタッフにも多くの場面で助けられた。検事さんとの打ち合わせでは毎回私たち家族に付き添いをしていただいた。
 空気のような存在で黒子に徹しておられ、いざ何かあったとしても何も困らない状況作りをしていただいたと思う。公判中の妻の意見陳述の際には、証言台に立つ妻と加害者の間にいすを置いて遮り、妻が無用な圧力を感じずに証言できるように取り計らっていただいた。非常に細かい部分ではあるが、やはり女性ならではの配慮が行き届いていたと感謝している。
 近所の方々にもお礼を述べたい。事件が起きてからは蜂の巣をつついたように、大勢のマスコミ関係者に我が家は取り巻かれていた。私たち家族が一切報道の前に出なかったことから、近所の方々が根堀り葉堀りして取材を受けたようだ。後で聞いた話であるが「こんなことを聞いてきたから、当たり障りのないように答えておいたよ。」と後で困らないようにと気遣っていただいたようだ。
 マスコミの追及も予想をしたほどではなく、警察との協定をしっかりと守っていただき余計なストレスを感じることがなかった。マスコミの方々にとっては、取材し甲斐のない私たちであったかも知れないが、そのお陰で私たちは悲しみに包まれながらも平穏な生活が送れたと思っている。
 しぱらくして、裁判員裁判が始まって4年が経過し、裁判員裁判の見直しの特集を組むということで、ある地方新聞紙の記者から取材を受け、そのときに「前例のない画期的な判決でしたね。」と言われた。本当にそうだろうか、否、これが当たり前の判決だ、やつと一般市民感覚の判決が下りただけだ。裁判を市民の手に近づけることができた第一歩に過ぎない。特殊な職業に従事する人たちだけの特別なゲーム・・・長いこと被害者家族たちを不本意な判決で苦しめ続けてきた・ ・ ・は終わりつつある兆候だと思いたい。
 加害者の死刑は確定したが、私たちは決してこの事実を手放しで喜んでいるわけではない。 住田がいつ処刑されようとも、私たち被害者家族の悲しみが帳消しされるわけではない。娘が生き返ってくるはずもない。私たちは生ある限り悲しみの十字架を背負って生きていかなければならない。いくら望んでももう二度と会うことができないという悲しみと、親として娘を幸せにすることができなかったという辛さからどうやっても逃げることができない。
 また手放しで喜ベないもうーつの理由として、裁判員裁判以前の判決で悔しい思いをされた被害者家族のみなさんが、法改正に向け血のにじむような地道な努力、運動を続け闘っていただいた結果、私たち被害者家族が救われたのだ。諸先輩の努力の恩恵を最大限に享受したのが私たち家族だったと思っている。私たちが勝ち取った結果を単なる事実として終わらせてはならない。
 これで終わりだとは決して思っていない。やるべきことはまだまだ残されている。私の本当の闘いはこれから始まる。多くの被害者家族の方達が築いてくれた道をさらに広げていくことが私に課せられた使命だと感じている。私たち家族と同じような思いをする人たちが一人でも少なくなることを願って、自分にできる最大限の努力を続けていきたいと思う。