特定非営利活動法人おうみ犯罪被害者支援センター
匿 名
20O7年 5月5日に事故は起きました。
前日
娘は、ずっと前から6人の友達と一緒に、その遊薗地に行くのをとても楽しみにしていました。デジカメを買い、レンターカーを予約して、娘が運転するというので私は「事故だけは気をつけてや」と言いました。
娘たちは前日からうちの家に泊まり、朝早く出かけて行きました。出かける時の楽しそうな声が聞こえていましたが、私はわざわざ起きて見送ることはしませんでした。
事故に巻き込まれた!?
夕方5時半のニュースで「遊園地で事故があり20才くらいの人が
亡くなった」と。
姉はすぐ電話をかけました。かけたのは娘の携帯電話なのに、友達が出て「巻き込まれた。それぞれ違う病院に行ったのでわからない」と言うのです。
『どうもまきこまれたらしい』 『でもどこからも連絡はない』
長女がやっと探した大阪の警察に運絡すると「確認のため来てください。」とのことです。説明は一切ありませんでした。ところがゴールデンウイークの夕方、高速道路は入口から既に大渋滞です。車中から何度も警察署に電話を入れたのですが、「とにかく碓認を。」と言われるだけで、詳しいことは何もわからないままでした。
夜8時過ぎ、ようやく警察署に着きました。写真を見せられました…娘でした。『なんで』という言葉しか出てきませんでした。
その後、検死があると言われ、しかたなく娘のそばを離れました。警察官は、「即死だったので苦しまなかつたと思う。」 と言いました。
『そんなんわかれへんやん』『本人、痛かったやろし、苦しかったやろし』でも、それ以上詳しいことは聞けませんでした。
帰宅
翌日夕方5時、ようやく家に帰ってきました。家に入り実姉の顔を見た途端、 大声で泣きました。その後はまるで夢の中にいるようで、しかし不思議に頭は冴え、目の前の葬儀の段取りだけを考えていました。とにかく忙しかったのです。
葬儀後、手伝ってくださった方たちと娘の思い出話などをしている時、笑っている自分がいました。妙に饒舌なのです。
『何でやろ? 悲しい席やのに』『何で私は笑顔なんやろ?』『こんな自分を見た人はどう思っただろう』後からそんなことを思い出して、自分で自分がイヤで、悔やまれて、ずっと気になっています。もうそれはすごい嫌悪感でした。
会社側が謝りに来たときも何故かわからないのですが、私は妙に丁寧に敬語で喋っていました。娘をこんな目に遭わせた相手なのに。
私は全てがおかしくなっていたのだと思います。
今でも娘の友達が話をしに来てくれます。今現在の話やたわいもない話です。それが嬉しくて、楽しくて、こんなに大勢の友達がいる娘をとても誇らしく思いました。
でも事故当日の話は一切しません。
いろいろな感情
いろいろな感情が出てきたのは、一つ一つの段取りが終わってからでした。それまではあまり感情も出なかったし、刺激的なことは、そばに何もなかったんです。テレビも新聞も部屋の隅に片づけていましたから。何がどうなったのかなんて、聞きたくもなかったんです。
当時、家族は皆眠れませんでした。娘の話もできませんでした。そのころはまだ大きな声で泣けなかったんです。
忌明けのいろいろなことが済んだ後は、ふわーと夢の中にいるようでした。 何が何だかわからない「ふわぁー」の感じです。
ひとりでいるときは何をしていても泣けてきました。よく涙が枯れるといいますが、限りなく涙が出ました。けれど家の中では娘たちもいるし、ひとりになれる風呂場や車の中が「泣ける場所」でした。大声を上げて思いっきり泣きました。私は自分ひとりで泣ける場所がほしかったんです。
マスコミが押し寄せて、電話とピンポン(インターホン)が続きました。そのうち電話が怖くなって、電話のべルが鳴ると体がビクッとなりました。今でも電話が嫌いです。ピンポンが鳴り「今は話せません」と応えても、5分も経たないうちにまたピンポンと鳴るのです。マスコミはよその家の庭にまで入り込むんです。喋らない私の代わりに近所の人が取材を受けていたのを見て、とても申し訳なく思いました。
とうとうマスコミへの恐怖で、家から出られなくなりました。でも買い物をしないわけにはいかないので、夜中や明け方に、近所の店ではなくて遠くの24時間営業のスーパーへ行きました。ゴミ出しも早朝にしました。
人との関わりが怖くなって、人がイヤになって、 隣近所の人からの声かけもイヤになってしまいました。私はひとり閑じこもって泣いていました。
支援パンフレット
支援のことは、早い段階でパンフをもらっていたと思いますが、目に入らなかったのかそのまま置いてありました。2ヶ月くらい経って「こういう支援があるよ」と言われたと思います。大阪府警の人が何回も訪問してくれましたし、滋賀県警からも被害者支援担当のKさんが何度も連絡をしてくれ、いろんなフォローをしてくれました。
そういう中で、OVSC(おうみ犯罪被害者支援センター)を知り、1時間喋るカウンセリングに通うようになりました。カウンセリングは、いろいろとアドバイスをしてくれるものだと思っていたのですが、T先生(医師)は、話を聴いてくれ、私を泣かしてくれました。カウンセリングの後で長い時間OVSCの方たちともいろいろ話をして、そこでもまた泣かしてもらいました。それが私の助けになったのです。帰りはとても疲れているのですが、その疲れは心地よかったんです。
裁判所へのOVSCの人たちの付き添いはありがたかったです。判決の日、乗っていた電車が人身事故で止まった時も、すぐ動いて車掌さんに掛け合って電車から私たちだけ降ろしてもらい、他の電車に乗り換えて、少し遅れたけれど何とか法廷に間に合った、というような事もありました。持ち物もいろいろ配慮してくださいましたし、弁護士さんのところに行く時も、相談方法すらわからなかったので、付いて行ってもらって助けられました。
事故ではなく事件
警察は、「これは事故ではなく事件だ。」と言ってくれました。あと少しで二十歳になる、その子がいなくなったんです。奪ったあの人たちが憎かった、だけど相手は個人ではなく会社なので、恨む相手がぼやけてしまうんです。
心の拠り所に
苦しみは本人にしかわかりません。やはり他人事です。
でも喋ること、吐き出すことで気が楽になります。「ああしろ、こうしろ」と言われると、『ああこの人はわかっていない』と思うだけです。ただ聴いてくれるのがありがたいんです。こんな団体が全国的にあることも、普通に生活している時には目に入りません。事故は予告があって起こるものではないのですから。
支えてもらえる人がいることは、本当に大切だと思いました。相談員の皆さん、どうぞ良い話し相手に、心の拠り所になって下さい。