清 水 恵 子
『直は結婚してもずっとお母さんと一緒に暮らす。お母さんが歳をとっておばあちゃんになったら今度は直が面倒見るでね。長生きしてよ。』と言ってくれたのは、事件の数ヶ月前のことでした。 中学生になってもこんなに優しい、可愛いことを言ってくれる娘でした。
たった13年という短い人生でしたが、私の娘として生まれてきてくれたと、娘が私たち家族にくれた幸せ、残してくれた暖かい心は今も私の心の中に生きています。しかし、事件現場となってしまった建物も取り壊され、事件が風化していってしまうのを感じます。
平成18年4月19日、朝いつものように「行ってきま一す!」と学校のジャージにリュックを背負い、元気に走っていった姿が最後でした。
私のかけがえのない大切な娘は、たった一人の少年の身勝手な思いで、一瞬に、残虐に、全てを奪われました。私たち家族の幸せも、将来も、普通の生活も、何もかもが奪われました。かわいい笑顔、笑い声、私たち家族にくれた優しさ、楽しかった思い出。どれを思い出しても悲しくなってしまうばかりです。 加害者は当時15歳の少年で、二つ年上の兄の友人でした。娘が発見された日に逮捕されましたが、犯行当日から逮捕される日まで普通に学校へ行き、家族と外食や、カラオケを楽しんでいました。私たち家族や警察が捜しているのを知ったときも「直、どこにいるんだろうね」と一緒に探す振りをしていました。少年は逮捕後、傷害致死を主張して、殺すつもりはなかったと言いましたが、何一つ口論にもなっていない無抵抗の娘に対し、顔を殴り、首を絞めて、土留めを刺すために、頭を角材で何度も殴り、死んだかどうか確認するために手首まで切った。そしてその遺体の横でかばんをあさり、財布まで開けている。遺品となって返ってきた娘の財布の中には十円玉が4枚、そしてファスナーの内側には血痕がありました。私たち遺族からすれば、強盗殺人だと言わずにいられません。
三日間も暗い寒い廃墟に放置されたことを思うだけでも胸が締め付けられる思いですが、加害少年の供述調書に書かれていた、我が子の最後の言葉、残虐に次から次へ傷めつけられる暴行の内容、意識が無くなっていく娘の様子を、知れば知るほど、どんなに怖かっただろう、痛かっただろう、苦しかっただろうと、本当に言葉には表せない思いです。どうして私は生きているのだろう、何でご飯なんか食べているんだろう、守ってあげられなかった、助けることが出来なかったと自分を責める毎日です。
少年審判の結果は保護処分となり、三年以上の少年院送致となりました。私たち被害者側の代弁者もなく加害者側だけの密室での審判で罪の重さを決められても、受け入れることはできません。
そして、もうその三年という月日が過ぎました。 加害少年は社会に復帰して人生をやり直すのです。謝罪もなく、刑罰も与えられず、賠償責任をとらなくても、また自分の人生を生きられるのです。
私たち被害者遺族は、どれだけの月日が経とうと、悲しみが癒えることもなく、加害者に対しての憎しみも薄れることはありません。そして、どれだけ願っても娘は帰ってきません。
加害者は名前も顔も明かされず、犯行の動機も『少年の更生の妨げになる、少年の人権を守るために。』と、すべてが少年法で守られました。 しかし、被害者は13歳になったばかりの少女にも関わらず、名前も顔も明かされ、まったく身に覚えの無い事実無根の報道が何度も繰り返されました。
事件報道では、交際相手とされていましたが、少年と交際していたのは別の子です。あるテレビ局の取材で、マイクを向けられた見ず知らずの人が「何回も家出を繰り返していた子で、犯人と一緒に家出したこともあるらしい。」と話していました。
タクシーの運転手が警察署から私と娘を乗せたとき、万引きをした娘を私が叱っていたという記事もありましだ。犯人とどころか娘は家出をしたことなど一度もありません。万引きなどの非行事実で補導されたこともありません。娘と二人でタクシーに乗ったことすらありません。娘は毎日の出来事をブログに書いていました。
事件の10日前のブログに家族や友人とお花見に出掛けたことを書いていました。お花見をしていた公園の中で私の友達が、原付バイクの後ろに娘を乗せて遊んでいました。そのことを「バイクに乗せてもらった。楽しかった~。まあくんありがとう。」と書いていました。それを、深夜に暴走族とバイクを乗り回していた。と報道されました。
被害者である娘は、数日の間にまったく違う人格にされていました。
地元では娘と私たち家族を中傷するひどい噂話ばかりでした。まるで娘の方が悪いことをしたような言われ方で愕然としました。娘はもう、身に覚えの無いことを噂されても、否定することも涙を流すことも出来ません。私は家から一歩も出られなくなり会社も辞めました。なぜ被害者がここまで苦しめられるのでしょうか。
現実を受け入れるだけでも苦しい時期に、多くの悩みや不安、恐怖に襲われました。感情をも失い誰を信じればいいのかと絶望しました。
そんな中、唯一私が信頼して心を開くことができたのが、当時中津川警察暑で生活安全課の課長を務められていた方と、岐阜県警の被害者対策室の方でした。私がその方々に心が開けるようになったのは、事件当初からずっと私たち家族を見守っていてくれたからです。事件が起こった日、娘の変わり果てた姿に対面したときも、マスコミに追われ自宅に帰れないときも、司法解剖が終わりやっと娘が自宅に帰ってこられたときも、通夜、告別式も、ずっと傍にいてくださいました。裁判所へ意見陳述に行ったときも付き添っていただきました。そして少年審判で、逆送致もされないと判ったあの日からは、一番分かりあえるはずの家族がそれぞれの感情を抑えきれずぶつかり会い、何度も何度も崩壊の危機がありました。私は生きる気力も失い、娘のところへ逝こうとしたこともありました。
そんな時も、夜中であろうが何時間でも話を聞いてくれて、支えてもらい本当に暖かく見守っていただきました。その後、ぎふ犯罪被害者支援センターの講演会に出席させていただきました。同じ体験をされた方や、支援活動をされている弁護士の方を紹介していただき、支援センターの方々には、私の話や意見なども聞いていただきました。娘のためにも生きていかなければならないと思えるようになったのも、今、私達家族のかたちがあるのも、早い時朝から支援をいただき、今もなお見守ってくださる方々がいるお陰だと本当に感謝しています。
しかし地元では今も孤立した状態のままです。事件や事故というもの自体を無くすことはできないのでしょうが、私が受けたこの二次被害といわれるものは、この社会が変われば防ぐことができるはずです。 もう誰も、こんな思いをすることの無いように、被害者に対しての偏見や報道のあり方、被害者の人権を無視した加害者よりの少年審判では納得できないことを声にしていきたい。 そして娘の名誉を回復したい。
今はもう、会話をすることも抱きしめることもできませんが、そうすることでずっと直のお母さんでいられると思っています。