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社団法人被害者サポートセンターおかやま

大 崎 利 章

Ⅰ 事件の概要

 事件は去年(2010年)2月25日の午後5時半ごろに起きました。私はまだ仕事から帰宅していなかったのですが、弟が突然、家の中に入ってきて妻を何度もナイフで刺していたと子供達が話していました。
 弟は妻の頭や背中をナイフで10数カ所刺した後、今度は、子供の方に「お前らも殺してやる」と言いながらナイフを振り回してきたそうです。弟は子供達を切り付けた後、灯油をまいて家に火をつけました。火が燃え広がるとき、長男と二男は別々に逃げ出していて長男は近所の家に助けを求めていました。
 そのとき妻は、自力で家の外にでて燃える家の前で、当時7歳だった二男の名前を叫んでいたそうです。家にいた家族3人がバラバラになり特にまだ小さかった二男が無事かどうか、確認したかったのでしょう。
 私が帰宅した時、妻は既に意識はありませんでした。それでも、私がそばに行くと妻が顔をこちらに向け、何かを語りかけているようでした。子供達の無事を確認してほしかったのか、弟のことを話したかったのか。妻はその後、出血多量で死亡が確認されました。子供達は幸い命は取り留めましたが20針以上縫う怪我を負いました。弟は家に火をつけた後、車で逃げましたが2時間後に警察に逮捕されました。 Ⅱ 意見陳述

 この度の事件について私達遺族の心情についてお話いたします。


 ①平成14年に両親がともに刑務所に入ったため、住宅ローンその他の支払いを私達夫婦が全額支払う生活が始まりました。最初は生命保険を解約した金で穴埋めしていたのですが、その金も底をつき、貯金もなくなりました。私達夫婦は共稼ぎをしていたのですが、光熱費は電気代で多い月には38000円、水道代は上水道の使用だけで20000円以上の請求があり、光熱費の滞納、税金の滞納、次男の保育料の滞納としだいに支払いがたまっていきました。
 ②そのため、生活を切り詰めようと、風呂の水は1週間に1回交換するようにし、トイレの水も朝全員が用を足してから流すようにしていました。いまだに二男はトイレの水を流すことを知りません。こんなに節約しているのになぜ請求が減らないんだろう、どうして水道代が20000円以上の請求があるのだろうか、と私達夫婦は思い悩みました。
 こんなにたくさんの請求が来ているのに、弟は、支払いをすることなくパチンコやボートで負けてはひきこもり、仕事もしないで好き勝手に生活していました。それにも拘わらず、私が勝手にブレーカを落としたとか、車を勝手に処分しようとしたと言っておりますが、弟は、電気代も車のローンも支払わなくなったのです。車については、妻が自分の定期預金で残額をすべて支払ったことを知っていながら車をただ乗りしていたのです。
 また、弟は、私達家族を4年以上も騒音でおどし、威嚇しました。私達夫婦は、こんな生活がいつまで続くのかと思い、最初は、自分達が家を出ようと借家を探しましたが、保証会社から断られました。次に、家を売って買換えようとしたのですが、銀行からブラックリストではお金は貸してもらえませんでした。それならば支払いをしない弟や両親に家を出て行ってもらおうと考えたのです。  そうすれば、電気代や水道代の請求も軽くなるし、騒音も無くなると思ったからです。また、このような状態を両親や親族は知っていながら私達に支払いを押し付けていました。
 ③皆様は、私が弟と話し合っていればと思われるかも知れませんが、弟が両親に激しい暴力を奮っていたため、その矛先が私達失婦に向かってくることが怖かったのです。
 今の生活を壊されては困ると思い、話し合いなどできませんでした。


 私達遺族は、この事件で多くのものを失い、又多くの傷跡が出来未だ治療中です。
 ①子供達は一番大事な母親を目の前で殺害され、自分達もナイフで切りつけられ殺されそうになりました。子供達は、未だにその恐怖から逃れる事ができず、夢に出てきたり、現実と妄想が頭の中を駆け巡り心が癒される事がありません。
 二男は未だに「ママに逢いたい、天国はナイフで刺したらいけるの?」と言います。長男は「火のついた家の中に二男を探しに行こうとしたらママから行くなと言われた。僕があの時火の中に入ったら死んでいたのだろうか?」と突然フラッシュバックし語りかけてきます。
 ②病院に入院したものの、手持ちの金額が7000円余りしかなく、病室の付き添いベッドはリースの為借りられず、付き添い食は無く外食する余裕も無いので、子供が残した物を食べてしのいでいました。洗濯も料金がかかる為、病室の手洗いで洗濯し、風呂も夜中に共同の流し場で体を拭く程度で何日も風呂へ入る事ができませんでした。
 ③私は、そんな中、妻の葬式を病院の1室を借りて打ち合わせをし、葬儀は病院から外出する状態で行いました。葬儀の最後の別れの時、二男があまりの悲しみから口から血を吐き出し気勢を上げ、とても見ていられる状態ではありませんでした。葬儀後、遺骨を病院に持ってくるのは断られ、焼けた家には置けず、お寺様にお預かりして頂きましたが、お寺様には葬儀代や焼香代など一切払っておらず、非常に心苦しい思いでした。
 ④子供達は病院で入院生活が始まりましたが、治療費が払えない事にきづき病院を慌てて退院しましたが、長男の傷が裂けて出血し又病院に戻り治療するといった状態で未だに傷跡が痛いと言っています。
 ⑤子供たちに母親の死亡を伝えるのはとても辛かったです。長男には手術中「ママは?」と聞かれ、私と長男との間で次のような会話が続きました。
 長男に、「ママは倒れていたときどうだった?」「動いていなかった」「ママはだめだった」「ママ死んだん?」「ああ…」長男はそれから涙が止まりませんでした。長男に「二男はまだ知らんから言うなよ」「ウンわかった」  その隣で治療していた二男からも「ママは?」と聞かれましたが「ママも違う病院で治療しているから大丈夫だよ」そう二男に説明すると「早くママに逢いたいな」と言っていました。しかし、一夜が明けて、私が新聞を購入したのを見た二男から「ママはどうしとん」「新聞は何か書いてあるん?」と聞かれました。私は、新聞には母親死亡の記事があった事から二男に嘘をつき続ける自信が無くなり、二男に「ママは死んだんよ」と言うと、二男も突然泣き出しパニック状態になり、吐き気や嘔吐の症状がつづき、落ち着くのに何時間もかかって大変でした。
 ⑥病院を出てからは住む家が無いので、警察が用意してくれたシェルターで何日か過ごし、その後は、会社の施設を3日間間借させてもらいました。
 しかし、頼れるところも限界が来たのでとうとう焼けた家に帰る事となりました。こげた臭いと悪臭で散々でした。いままで住んでいた母屋は使える状態ではなく、離れが使えそうだったのでそこに住む事にしましたが、布団も無く着るものさえも無い状態の生活が始まりました。
 この電気ジュータンは使えるだろうかと、とりあえず焼け残った物を洗濯する事から始めました。洗濯したものが使えるかどうかもわからないまま何日も同じ事の繰り返しが続きました。今まで生活で使っていたものが全部燃えてしまったので、妻の友人や親戚に連絡しようにも住所すらわからず、いまだに連絡が出来ていない状態です。
 思い出の写真やアルバム、ビデオなど大切にしていたものが全部失われました。ランドセルはついていた金具のかけらだけしか出てきませんでした。イチロー選手のサイン色紙や、阪神タイガースの 葛 城選手からもらったバットも、焼け焦げていました。大切にしていたゲーム機は溶けた状態で、子供はその溶けたゲーム機を大事そうに何度も拭いていました。教科書の燃
えカスから子供の名前がはっきり見えていたのがとても悔しく感じました。


 ①妻は、弟に何一つ恨まれるようなことをしたわけではないのに、弟の一方的な思い込みで何度も刺され、目の前で大切にしていた家を放火され、燃える家の方に向かって二男の名前を何度も呼び最後まで二男を探していたが、二男の無事を確認できないままだったのだろうか?
 妻は、子供が大好きで、障害があることなど関係なく子育てに夢中になっていました。自分のものはいらないから子供に何か買ってあげて、といつも子供のことを気にかけ、長男の服のおさがりを着て「長男も大きくなった」と嬉しそうに話していました。
 子供が寝ているときに「これは私の宝物」と私に話してくれ「子供がもう一人欲しいね」などとよく言っていました。
 ②こんな騒音のする生活からいつ解放されるのか?弟はどうしてこんなことばかりするのか?
 騒音も、夜中中嫌がらせならぬ威嚇をされ続け、睡眠がとれずに何日も寝不足でいた事もありました。寝るときにはティッシュペーパーを耳に詰めていたのですが、それでも目が覚めてしまうほどの大きな音と、地響きがするような「ドスン、ドドドドー」といった音で4年数ヶ月も苦しめられてきました。
 妻は、こんな生活から早く解放されたいと願っていたのですが、その思いももはやかないません。なぜ私がこんな目に合わなければいけないのかと思っていることでしょう。


 ①長男は母親を助けられなかった事を未だに後悔しております。
 「ママはあんなヤツにどうして殺されなければいけなかったのか、僕があの時柔道着でナイフを落としておけばママは助かっていたのか」と何度も同じことを繰り返し話します。
 ②子供達の様子も変わってしまいました。「お父さん死なないで、パパが死んだら俺たちどうしたら良いのか判らない」と今後の不安が募ってきて夜中に突然泣き出す事がよくあります。そして、「パパが死んでしまった夢を見た」とか「怖い夢を見た」など子供達も心が乱されいまだに精神科治療が続いています。


 子供達もさびしい思いでいっぱいですが、私も心が苦しい毎日を送っています。遺骨となった妻に話しかけるのですが、返事が返って来る事はありません。妻は今どうしているのだろうか、「ママ、子供達は頑張って生きているよ」心の中で何度も話すのですが返事は返ってきません。子供達とともに何度、妻のそばへ行こうと考えた事でしょう。しかし、生き残った子供達のためにもこの世で精一杯生きなければと、この子供達が私の生きる支えです。 6この苦しみや、悲しみを与えた弟を必ず死刑にしてください。
 そして、私達の両親や親族はこのような事態になっても未だに妻に線香一つあげようとしません。自分の家族が人殺しをし、その被害を受けている者がいる、その者に対してどう感じているのか。
 こんな人殺しをした弟やその両親親族を私は決して許す事が出来ません。

Ⅲ 裁判を終えて

 弟の裁判は、「裁判員裁判」で、行われました。
 私は、VSCO の支援によって、被害者参加制度で裁判に参加しました。証言も行い、意見陳述もしました。
 裁判で、検察は弟に懲役27年を求刑し、判決は求刑通り、懲役27年になりました。
 これは、岡山県内の裁判員裁判では、最も重い判決だそうですが、報道によれば裁判員を務めた人からは、この刑を「軽い」と答えた人が複数いたそうです。
 私も「軽い」と思っています。
 裁判は終わったけれども、もとの生活にもどることはありません。
 子供達も母親のいない寂しさに耐えながら、現在も PTSD 等の治療を続けています。
 妻のいない家の中で、話しかけても返事のないつらさ、苦しさ、寂しさをかかえて毎日を送っています。今は、子供達が、私の生きる支えとなっています。
 最後に、私達を支えて下さった警察、検察、病院、教育委員会、学校、行政関係者、会社、VSCO 等の方々に感謝しています。